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トップページ原爆の絵きのこ雲は生きているかのようにもこもこと形を変えていった。

原爆の絵

識別コード NG325-05
絵の内容 きのこ雲は生きているかのようにもこもこと形を変えていった。
作者名(カナ) 箕浦 良直(ミノウラ ヨシナオ)
作者名(英語) Yoshinao Minoura
当時の年齢 14歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所 大原神社付近
情景場所旧町名 仁保町
情景場所現町名 向洋大原町
爆心地からの距離 6,100m
ブロック別 比治山・仁保地区
作者による説明 **別紙
 広島の惨劇は、この光から始まった。(注1)
 8月5日(日)毎日が「勝利の日まで」「月月火水木金金」で本土決戦に備えていた。
 昭和20年、工業学校1年(13才)3学期から学徒動員で軍需工場で働き、B29を落すことのできる高射砲(注2)部品や、32耗機関砲の弾丸など削る作業をしていた。
 夕方帰ってから伯父と大八車を引いて、竹屋町附近に建物疎開で壊した風呂焚き用の木材を取りに行く。夜、空襲警報が発令されて遅くなった。脚気と疲労で体力は極限状態。
 8月6日(月)軍需工場は電気休み。
 朝、何回か起されたが起き上がれない。
 伯父は一人で大八車を引いて木材を取りに行ったらしい。
 布団をたたみ枕を置き頭を乗せて漠然と西北西(310度)の空を縁側と塀越に眺めていた。雀と蝉の鳴き声の聞こえる静かな青空であった。
 警戒警報は解除になったが、飛行機のエンジン音がする。急に大きな音に変わった。B29だ。それから何秒たったであろうか、真珠の珠が「ボァ」(図1)(注3)という感じで広がり、「熱い」熱線で顔をやられた。
 「今のは何であろう」明るい時に照明弾を落すはずはなかろうし、真珠光のあとは橙色の縞模様が放射光となって拡散し、(図2)次に、桃色とトマト色の光が半円状の波紋となり右から左からと交互に交叉しながら「すー」と消えていった(図3)。
 「グワ」壁土、煤、埃が混ざり合った物凄い爆風におそわれた。「近くに爆弾が落ちた、次が落ちる。」
 「足の裏が冷たい」気がつくと山手の横穴式防空壕に裸足で入っていた。静寂が続く。遠くで人の声が聞こえだした。「もう大丈夫であろう」と恐る恐る外へ出た。
 さっき見た青空には、東南東から朝日を受けて白く美しく形のよい茸雲(図4)がくっきりと浮んでいた。
 今の爆発は皆実町のガスタンクか、外に出ても爆弾の落ちた形跡は全くない。
 家の中は、天井が浮き上がり破損した家具や、土埃と粉塵の匂いで大変であった。
 向洋大原町の大原神社に登って広島方面を見た。比治山のむこうが焼けているようである。
茸雲は生きているかの様に「もこもこ」と形を変え(図5)黒色と混ざり合いながらタオルを絞って立てた様な格好で西北西に向っている(図6)。上方は雷雲に変わり雷鳴も聞こえてくる(注4)。
 広島で何が起こったのか、伯父も心配だし大原町から広島~呉弾丸道路を鹿篭から大州橋辺まで歩いた光景は「エ、国鉄が通っていない」呉方面から消防車が数台サイレンを鳴らして急いでいる。
 広島方面からは、火傷で皮膚が剥がれた人、手を胸近くまで上げて歩く人、一様に何かを見つめたようにとぼとぼと歩いている。「この人達はどうしたのであろう」
 これより先は、行かない方がよいと判断して引き返した。
 夜になって大原神社から見ると、比治山の向こうは(図7)ひどく燃えている様である。焼夷弾攻撃を受けたにしては機数が少ない。消防車が行っても火は消せない。後の死体探しに広島に入り数日間歩いてやっと大きさが理解できた。
 B29をやっつけようと工場で働いたが、逆に一発の「ピカドン」でやられたのである。
 「ピカドン」が原子爆弾と分かったのは、8月後半でこれで幾つかの疑問が解けたのである。
注1 昭和60年ごろ、広島市の被爆者実態調査で被爆体験「原爆と再会」を投稿
注2 当時、口径15糎の高射砲は世界一。帝都防衛で2門造られ、うち1門が三鷹市にあった中島航空機の南方の久我山に据えられ、一発(三式弾?)で数機落ちたと、それ以降は米軍機が上空を通らなくなったとのことである。
注3 50才の夏、富士山に登り御来光を見た。「この光の色だったのだ」36年ぶりの再会となった。原爆光と色の変わり方が逆で、時間の単位で明るくなっていくが、原爆光は秒の単位で放射状、波紋状のゆらぎが加わりながら消えていった。
注4 雷鳴を伴った雷雲は、黒い雨を降らせた方向に行ったものと思われる。
サイズ(cm) 17×25.1
展示の説明文

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