トップページ原爆の絵燃えさかる火のそばを通り実家に徒歩で帰る。途中黒焦げの路面電車の中で焼死した人たちを見る。
識別コード | NG321 |
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絵の内容 | 燃えさかる火のそばを通り実家に徒歩で帰る。途中黒焦げの路面電車の中で焼死した人たちを見る。 |
作者名(カナ) | 東谷 トミエ(ヒガシタニ トミエ) |
作者名(英語) | Tomie Higashitani |
当時の年齢 | 15歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/7 |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | **絵の中 青白き光線一瞬にして尊き人の命奪いしおろかなる戦いに無念さ残りぬ 黒こげし電車にしっかとつかまりし人の姿刹那の地獄見しおもいして 乗降口につかまり立ちたる黒こげの遺体命奪われし無念さひとしお 姉の友人 姉 私 被爆の翌日燃えさかる火のそばを通り田舎に引上げる私達です **裏 東谷 トミエ **別紙 当時、私は看護婦という職業を身につけるため 或企業の附属医院内で養成していました機関で見習看護婦として午前中は医療従事の仕事 そして午後からは勉強といった毎日を過しておりました。その当時は休日というと月に一度といった状態で身体もあまり丈夫なほうでは御座いませんでしたので 腸カタルという病名で一週間の休みを看護婦長が下さいまして兄姉が多かった私は姉の処に泊まり養生をしておりました。丁度五日目だったと思いますが 早目に帰寮しなければとおもい駅前にてバス(当時は木炭車)を待っておりましたが夕方になっても来ないため並んでいた人達も一人二人と諦めて帰って行かれ、私も再び姉の家に後戻り致しまして 翌日は吉島の姉宅で被爆致しました。原爆が投下された夜は近くの防空壕で一夜を過し 今どんな状況なのかも判らず不安なおもいで過した事をおぼえております。朝になって町内会の方々と一緒に焼野原になっている処で真黒になっているなべなどを見つけて身につけていた少しばかりの米などを出し合って炊いて分け合っていただき 姉の全財産である衣類を大風呂敷に入れて避難していたのを背負わされて燃え盛る町の中を通って田舎へと徒歩で帰り その途中で親切な方が車(貨物型)に乗せて下さり実家にたどり着いたので御座います。青白い一瞬の光線で背中に三箇所やけどを負い、長い月日治癒致しませんでした。それでも痛さなど感じる心の余裕などなく 恐ろしさで一杯でした。丁度十五才の夏 此の世の地獄を見たおもいで御座います。二度とふたたびあってはならないとおもいます。平和である事の尊さ、そしてありがたさを身に沁みて感じる毎日で御座います。全世界が平和でありますようにと祈る毎日で御座います。 かしこ 東谷トミヱ 追伸 何十年ぶりかに絵を書きました。おもうように絵筆をはこぶ事が出来ませんでした。幼稚な絵ではずかしいおもいで御座います。おゆるし下さいませ。 |
サイズ(cm) | 37.9×53.8 |
展示の説明文 |