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トップページ原爆の絵宇品より船で故郷に帰る。船の甲板には4人の死者か重傷者かもわからない人が寝ていた。

原爆の絵

識別コード NG304-11
絵の内容 宇品より船で故郷に帰る。船の甲板には4人の死者か重傷者かもわからない人が寝ていた。
作者名(カナ) 月原 四郎(ツキハラ シロウ)
作者名(英語) Shiro Tsukihara
当時の年齢 16歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/10
情景場所 広島港
情景場所旧町名 宇品町
情景場所現町名 宇品海岸
爆心地からの距離 4,700m
ブロック別 皆実・宇品地区
作者による説明 **絵の中
休暇がでたので、被爆後4日目の朝、宇品港より船で家に帰ることになりました。
甲板に4人の死者か重傷人かわからない人が戸板や板ぎれに寝かされております、
10万人か20万人の死者の中で家族と故郷に帰ることが出来た人は例外中の例外でした。
広島市内では何月間も死臭が漂い息を止めて走りぬけておりました。おそらく大量の死体を焼却した場所でしょう。
呉軍港の入口近くになると練習艦が転覆し、三ッ子島の近くでは航空母艦 葛城 が破壊され、鍋棧橋の横には巡洋艦 青森が大破しておりました。音戸ノ瀬戸にさしかかると機関砲の痕か丸い穴が住宅に沢山あいておりました。この空襲を広島の校庭で眺めておりました。日本は戦争に負けた、淋しい。今治に入港し駅まで歩きました。
今治も8月6日の夜、空襲で焼野が原でした、放置された死者、けが人が1人もみあたりません、私の印象は今治の街は「きれいだなあ」でした。 広島では4日過ぎても死者も負傷者も被爆当時のまま手がつけられず、その惨状と比べれば
15日間の休暇後、尾道~広島駅経由で広島に帰りました。
原爆、爆発の方向 反対側は無傷です
熱線で瞬時に焼けこげた顔面。
原爆の悲劇を風化させないために、下手な画をかきました。
水爆は、広島型原爆の1000倍も2000倍も威力があるのです。人類には必要ない。
原、水爆の無条件廃絶を願います。
サイズ(cm) 25.7×36.3
展示の説明文

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