トップページ原爆の絵庄原から主人を捜しに行く。子供を背負い炎天下の焼け野原を歩きようやく再会することができた。
識別コード | NG286-02 |
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絵の内容 | 庄原から主人を捜しに行く。子供を背負い炎天下の焼け野原を歩きようやく再会することができた。 |
作者名(カナ) | 八木 久子(ヤギ ヒサコ) |
作者名(英語) | Hisako Yagi |
当時の年齢 | 23歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/13 |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | **絵の中 水ノムナ **裏 八木久子 八十才 元水彩連盟準会員 **別紙 昭和20年戦争が激しくなって、牛乳もなく親の乳も出なく栄養不良になった生後9ヶ月の子を小児科の先生が東京から疎開する様勧められ広島の庄原市へ落ち着きました。 主人は海運会が軍に集約されて宇品へ行きました。 原爆がその年の8月に広島市に落ちて、何が何だか解らないまヽに、1週間たった日、主人の母が我子心配の余り宇品へ尋ねて見ようと庄原へ神戸から来ました。直ぐ、朝駅で午後2時まで待って、やっと来た汽車に乗り2時間半後広島駅に着きました。驚いた事に人ッ子1人いない市内は一望千里焼け野が原、何が何だか解らないまヽ8月の炎天下、主人を尋ねて只、只管主人や子を思い乍ら歩き続けました。主人に食べさせる白米を持って!1人の成年がウオッ!!と断末魔の声を張り上げて、道へ転がり出ました。 気の毒ですけれど助けることは出来ません、只々見過し只管主人を案じて(生死不明)歩くばかりです。 神様有難うございます。ピカッと光を浴びた主人は生きていました。 先づ赤ちゃんのオシメを取り替えて、白米を炊き寮の人と食べて、壊れた天井から月を見乍ら主人の生存を喜び、寝ました。主人は平成13年10月84才10ヶ月で亡くなりました。 私は現在80才7ヶ月です。背中の子児は現在59才です。 女の人が政界にいたら此の様な大戦争はさける事が出来たと思います。我子を大勢死なせたのですから。毎日思います。 |
サイズ(cm) | 149×116.5 |
展示の説明文 |