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トップページ原爆の絵市内中心部にあった小さな散髪屋さん。両親と子ども4人だったが一家全滅した。

原爆の絵

識別コード NG283-05
絵の内容 市内中心部にあった小さな散髪屋さん。両親と子ども4人だったが一家全滅した。
作者名(カナ) 鈴木 恒昭(スズキ ツネアキ)
作者名(英語) Tsuneaki Suzuki
当時の年齢 13歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時
情景場所 播磨屋町
情景場所旧町名 播磨屋町
情景場所現町名 本通
爆心地からの距離 450m
ブロック別 紙屋町・本通地区
作者による説明 **絵の中
消えた散髪屋さん
六郎おじさんは、広島中心部(はりまや町)の小さな散髪屋さんでした。お店の名は『鈴木美髪院』といいます。耳が少し遠いので無口でしたが、まじめで、朝から晩までよく働きました。子供をとてもよくかわいがる、やさしいおじさんでした。
フジエおばさんとの間に、子供は4人いました。英昭君、公子ちゃん、護君、昭子ちゃんです。貧しいけれど、とても仲のよい、あたたかく幸せな家庭でした。
でも、昭和20年8月6日、午前8時15分、たった一発の原子爆弾で、それはなにもかも一瞬の間に、まるでろうそくを吹き消すように、消えてしまったのです。
六郎おじさんは一ヶ月後、五日市の収容所の名簿に、「重傷後死亡」とあるのが見つかりました。フジエおばさんも大変な重傷で、中山町の親せきに逃げのびていましたが、一家全滅らしいと聞いて狂乱状態になり、井戸にとびこんで死にました。
英昭君と公子ちゃんは袋町小学校にいました。校舎内にいた英昭君は軽傷でしたが、校庭にいた公子ちゃんは重傷でした。英昭君は公子ちゃんを背負い、火の海の中を必死で御幸橋まで逃げました。英昭君6年生、公子ちゃん3年生。2km以上の道のりを、どんなに重かったことでしょう。熱かったことでしょう。御幸橋の救護所で、公子ちゃんの衰弱がひどいので、英昭君は、「あとで連れに来るからね。」と言って公子ちゃんと別れました。別れぎわに公子ちゃんは、苦しい息の中で「お兄ちゃん、このカタキとってね。」と言ったそうです。公子ちゃんはそれっきり行方不明です。
英昭君はその後似島に逃げ、その後親せきの家へ引取られました。とても元気だったのに一週間ほどして、母親の死を知って一日中泣きじゃくり、急にものすごい脱毛と鼻血を出して死にました。
護君(3才)と昭子ちゃん(1才)は、店の焼け跡から小さな白骨となって見つかりました。二人とも何のために生まれてきたのかと、ふびんでなりません。 常在院教量日聞居士 俗名 六郎 43才
 常住院妙教日受信女 俗名 フジエ33才
 浄信日英童子    俗名 英昭 12才
 妙公童女      俗名 公子 9才
 正護童子      俗名 護  3才
 妙昭嬰女      俗名 昭子 1才
鈴木家のお墓には、今も仲むつまじく寄り添って六人の名前が並んでいます。「どうか二度と、こんな悲しいことがないように。」と六人は、天国からじっと、私たちを見守ってくれているにちがいありません。

大林組(山口銀行)
革屋町
金座街
新天地
八丁堀
播磨屋町
鈴木美髪院
安田銀行
下村時計店
キリンビヤホール
平田屋町
袋町小
(校庭)
電話局
サイズ(cm) 25.7×36.3
展示の説明文

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