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トップページ原爆の絵家族との再会。母は私の手をにぎり「よかったね」とあとは涙、涙、涙だった。

原爆の絵

識別コード NG280-04
絵の内容 家族との再会。母は私の手をにぎり「よかったね」とあとは涙、涙、涙だった。
作者名(カナ) 大西 比呂志(オオニシ ヒロシ)
作者名(英語) Hiroshi Onishi
当時の年齢 12歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/8(時刻)夕刻近く
情景場所 大河
情景場所旧町名 仁保町
情景場所現町名
爆心地からの距離 3,500m
ブロック別 比治山・仁保地区
作者による説明 **絵の中
家族との再会

被爆二日後
昭和町の近くに戻って歩いていた所を
奇跡的に父と再会し一緒に家族の避難している
大河の山にいく。

山に着くと母が駆け下りて来て
「比呂志さん よかったね。」
とあとは涙、涙、涙。
後の父がむしろをかついでいるのを一瞬
私の死体かと思って悲嘆にくれたとのこと。

見下ろす市街地は黒焔が絶えない。

喜んで呉れた母は左半身やけどで
一年後の昭和二十一年八月二十四日に
原爆病で還らぬ人となったのは痛恨の極みである。**別紙
(四) 家族との再会
六日は軍の乾パンと水、七日は軍と町内会などの差し入れるおむすびを頂きながら、被服支廠で二日間を過ごしたあと、八日の午前になって住居地の昭和町に向けて歩いていった。
比治山橋に近づくにつれて灰燼と帰した街はまだ焔があちこちに上がってくすぶっている。橋を渡り切った所で父と奇跡的にばったり出会う。父は広島県警察の部長で原爆投下時は宇品で電車内にいたそうである。私の安否を尋ねて避難先をあちこち廻り受付の名簿を確かめながら被服支廠で私の名前を発見し安否を色々近辺の人に尋ねながら、もしや昭和町のあたりをうろついているのではないかと探し歩いていた所であった。
家族が大河の山に皆無事で避難していると教えられ、父と二人で大河の山に向かった。
夕刻近く、山道を二人で登って行くと、上から母が降りて来た。母は私の手を握り「比呂志さん、よかったね。比呂志さん、よかったね。」とあとは涙、涙、涙である。
後の話では、私と一緒に私の前を登って来た父は街で調達した野宿用のむしろを肩にかついでいたのを見た母が死んだ私のむくろを父がかついで登って来たと思い、一瞬悲嘆にくれたそうであった。
母は被爆時、国防婦人会で鶴見橋のたもとで建物疎開作業に当たっていて、顔から肩、腕まで左上半身をやけどで覆われていた。女学校五年生で動員で郊外の軍需工場にいた姉、中学三年生で当日は休みで昭和町の自宅にいた兄共々、奇跡的に助かっていて山中で一緒になった。
その夜大河の山上から見た市街地は二日経った今もあかあかと街中が焔に包まれているのが一晩中望見された。
それから二日後に父がどうやって行ったのか、呉市三條通りの父の親戚に助けを求めに行き、そこの父のいとこ共々マツダの三輪車(バタンコ)で私共一家を迎えに来てくれた。三條通りに一ヶ月近くいた間に、呉市吉浦町にあった持ち家を借家人にあけて貰い、そこに一家が落ち着いた。
一ヶ月後に少年通信兵で旭川にいた長兄と小学校三年生で学童疎開をしていた弟が帰り、一家全員が揃った生活が始まった。それぞれが被爆のケアを続け、私も毎日のように頭の中から押し出されてくるガラスの破片の除去等の治療のため、呉の海軍病院に半年間かよい続けた。
左半身に無残なやけどを負った母がそれから僅か一年後の昭和二一年八月二四日に原爆病であの世に旅立っていってしまったのは、誠に痛恨の極みである。
サイズ(cm) 21×29.6
展示の説明文 家族との再会
1945年(昭和20年)8月8日 夕刻近く
大西 比呂志 (原爆投下時12歳、絵を描いた時69歳)
【作者のことばから】
奇跡的に父と再会し、一緒に家族の避難している大河の山に行く。山に着くと母が駆け下りてきて、「比呂志さん、よかったね」とあとは涙、涙、涙。

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