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トップページ原爆の絵当日の私の服装、モンペ、防空頭巾。かばんには、懐中時計、米穀通帳、衣料切符、印鑑等を入れていた。

原爆の絵

識別コード NG279-01
絵の内容 当日の私の服装、モンペ、防空頭巾。かばんには、懐中時計、米穀通帳、衣料切符、印鑑等を入れていた。
作者名(カナ) 山本 八重(ヤマモト ヤエ)
作者名(英語) Yae Yamamoto
当時の年齢 19歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵の中
(1)
**別紙
昭和20年8月6日
私は相生橋のそばにあった広島郵便局に務めておりました。己斐から電車で産業奨励館前で下車広島郵便局にいきそれから基町の広島陸軍病院本院の局に行く毎日でした。
その頃は食べる物も着るものもなく最悪の状態でした。
写真1 その日私が身につけていたもの
1.モンペ、防空ずきん、カバンです。
もんぺは実家の布団の表地(手製のアイ染のカスリ)
祖母の手作り、防空ずきんと同じ布
カバンは母の広帯の帯芯を出して作ったもの(白地で丈夫)
どちらも母の手作りです。
2.カバンの中味
父が大切にしていた懐中時計(私は時計がなくて困っていたが買おうにもない)それで父にお願いしてやっと許可してもらったもの「絶対に大切にする」と約束していました。父にとっても宝物だったようで最初はしぶっていましたが困る困ると云ってようやく貸してもらったものです。
ラシャの布につつまれて、鎖がついていてとても上品でした。私はこれを大切に大切にしていました。それに米の通帳、衣料キップ 貯金通帳、印かん、名前(縫いつけていた)等々、私にとって大切なものが入っていました。
被爆して気づいた事は、カバンも防空ズキンもないことでした。大きなショックをうけました。
後になって父に出合った時、「お父さん時計がなくなった」とおわびをしました所、「いいよお前がいるだけで」と云いました。日頃厳格な父の涙を見たのもこの時が初めてでした。
父は私を捜すためにわざわざ広島に来てあちこち廻っても見つからず「八重はもう死んだ」と落ちこんで帰ったそうです。
私が助けてもらったのは、私が身につけていたもの祖先のもの、父母のもの、すべてが私を守ってくれたと思っています。
一度もおくれて出勤した事のない私が叔父の帰宅によりおくれて助かったのです。
これも何かの縁で叔父に感謝していますが原爆症でなくなりました。
サイズ(cm) 26.7×38
展示の説明文

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