menu

トップページ原爆の絵学校の焼け跡。倒れた塀のがれきの中に見た頭蓋骨。女性らしく長い髪の毛があった。

原爆の絵

識別コード NG277-04
絵の内容 学校の焼け跡。倒れた塀のがれきの中に見た頭蓋骨。女性らしく長い髪の毛があった。
作者名(カナ) 盛生 倫夫(モリオ ミチオ)
作者名(英語) Michio Morio
当時の年齢 14歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/8
情景場所 県立広島第一中学校
情景場所旧町名 雑魚場町
情景場所現町名 国泰寺町一丁目
爆心地からの距離 900m
ブロック別 国泰寺・千田地区
作者による説明 **絵の中
第4図
25mプール
東グランド
広島一中南門
頭蓋骨の一部
倉庫跡
南グランド
**裏
第4図 広島一中南グランドと校舎の入り口に倒壊した塀の中に見た頭蓋骨の一部
盛生 倫夫
**別紙
第4図 広島一中南グランドと校舎の入り口に倒壊した塀の中に見た頭蓋骨
盛生倫夫
 14歳の少年(私)は袋町小学校の卒業生であるから立町、紙屋町、革屋町、袋町近辺の土地感はあり、幾つもの近道を知っていたが、電車通以外は通れる道は見つからなかった。最終的に、福屋から紙屋町の交差点を通り、宇品線の電車通りを通って、広島一中の焼け跡に到着した。電車通りもスムーズに通れる状態ではなかった。この間、何人(一桁の数)かの人とはすれ違ったが、遺体を見た記憶はない。
 広島一中の焼け跡に着いてみると、既に大刀掛、空本両先生と3、4人の生徒が正門横の御真影奉安殿の崩れた石垣の僅かな日陰に座って、情報を交換していた。そこで、夕暮れまで(多分5~6時頃まで)過ごしたが、その間に集まったのはせいぜい数人であった。
 広島一中の南グランドは掘り起こして、この年初めて薩摩芋を植えていたが、グランドの表面には青い葉も茎も全く見えず、グランドの土だけが見える状態であった。被爆後3日目にしかならないのに、既に学校の周辺には焼け跡のトタンや瓦礫を集めて、2、3の掘建小屋を作っている人々があった。当日出張していて助かった人か、肉親を求めて帰って来た人達であろうか、この人達はグランドの芋を掘って持ち帰ったり、後から取りに来るために、1ヵ所に集めて埋める人などがあった。ここで見た人はせいぜい5、6人であったろうか。広いグランド全面に植えられた薩摩芋は、その後近くの人々の食料となったのであろう。正義感に燃える少年達は、これは自分達が植えた芋であるとばかり、畑の監視人となり、芋の幾つかを、持って帰って食した。芋は焼芋となっていた訳でもなく、通常の芋であったような記憶がある。グランド一面の被爆薩摩芋の影響はその後如何なったのであろうか。放射能の影響は今となっては知る由もないが、被爆芋を喰った14歳の少年は71歳まで生き延びているのだから、少年個人にとっては許容の範囲内であったのであろう。
 校舎(東グランド)から南グランドへの入り口(南門)の外に東西に走る道路があり、校舎側の塀が倒れて下敷きになった遺体の頭蓋骨の一部(女性と思われる長い髪の毛がみえた)が塀の瓦礫の中にあったことを記憶している。撤去されたのはいつであったろうか、暫くの間はそのままになっていた。
 少年は見ていないが、学校のプールの中にも遺体が幾つかあったと後日聞いた。
 帰り道は何処を何のように通ったか、記憶がない。昨日午後通った富士見橋-比治山橋の道を通った筈なのに、幼児の遺体と馬の死体に関する記憶がない。多分情景は昨日と変わっていなかったためであろう。
サイズ(cm) 32×40.6
展示の説明文

戻る

Page Top