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トップページ原爆の絵小川に沿って細長い溝が掘られ、中に薪を並べていた。たぶん遺体をそこで火葬するのだろうと思った。

原爆の絵

識別コード NG277-03
絵の内容 小川に沿って細長い溝が掘られ、中に薪を並べていた。たぶん遺体をそこで火葬するのだろうと思った。
作者名(カナ) 盛生 倫夫(モリオ ミチオ)
作者名(英語) Michio Morio
当時の年齢 14歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/8(時刻)午後
情景場所 東練兵場
情景場所旧町名 尾長町
情景場所現町名 光町
爆心地からの距離 2,300m
ブロック別 牛田・広島駅周辺地区
作者による説明 **絵の中
第3図
尾長を経て大内峠への道
東練兵場
広島駅方面
小川
至鶴羽神社
**裏
第3図 東練兵場北東隅に細長い溝を掘り、中に薪を並べている
(8月8日午後)
盛生 倫夫
**別紙
第3図 東練兵場北東隅に細長い溝を掘り、中に薪を並べている
(8月8日午後)盛生倫夫
 8月8日、自宅で昼食を早めに済ませて、広島一中の第二非常時集合場所に指定されていた中山小学校へ、旭町-段原町-広島駅前-鶴羽神社-尾長-大内峠を通り中山小学校へ着いたが、そこには学校からの何の連絡もなく、第一集合場所であった広島一中(雑魚場町)へ行くことにした。
 中山小学校付近では一人の同級生に会ったが、彼は家に帰るということであったので、ここから広島一中への道は一人で、中山小学校から鶴羽神社までは同じ道を、そこから橋を渡り、放送局-福屋-紙屋町-浅野図書館を経由して広島一中まで歩いたが、その途中の出来事を記しておきたい。
 東練兵場北側には当時、道に沿って小川が流れ、水草や小魚が泳いでおり、行軍訓練や遠足等で何度も通った道であった。この小川の南側は東練兵場で少し低くなっており、東練兵場北東隅の小川に沿って長い溝を掘り、そこに当時貴重であったと思われる焚き木(薪)を並べていた。やや冷静さを取り戻していた14歳の少年(私)は、ここに遺体を並べて焼くのであろうと想像するだけの余裕は取り戻していた。未だ遺体は並んでおらず、焼いた跡も見られなかった。帰り道も、未だ焚き木を並べており、遺体は未だ並べてはいなかったが、遺体焼却以外に使用目的は考えられなかった。
 当時の放送局の建物はコンクリートのためか焼け跡に残骸が残っていたが、その近くを通過した。放送局周辺で子供を抱いた女性と思われる死体を見たと報道されていたが、少年は見なかった。見ようとしなかったのかも分からない。今から考えてみると、視野は極端に狭く、まるで自動車の運転のように行く手のみを注視していた。 白島線の電車通りを歩いて、福屋の前で金座街を直進しようとしたが、瓦礫の山で通れそうになく、そのまま電車通りを紙屋町の方向に向かって歩いていった。当時、福屋の中を覗いた訳ではないが、北側の入り口が見えたが、中は暗く外は快晴でめまいがしそうな強い日差しであった。後日、多くの病人が福屋の中にいたと聞いたが、少年は人の気配を感じても、中に入ることにためらいを感じていたであろう。
 福屋-紙屋町の電車通も電線や瓦礫の山で、歩き難くかったが、ここしか通れそうな道はなかった。むんむんとする熱気は、夏の日差しによるめまいやふらつきの平衡感覚の異常だけではないように感じられた。この感覚は今考えてみると、緊張や恐怖の影響の他、未だ残る強い放射能の影響の可能性がある。
 立町の近くであったろうか、北側に電車が1台、考えられないような距離の道路脇にふき飛ばされていた。被爆後未だ日が経っていない筈であるが、熱のためか赤く錆びて中はがらん洞であった。この電車の残骸は後日写真に取られて公開されていた。
サイズ(cm) 32×40.6
展示の説明文

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