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トップページ原爆の絵兵隊が小型のトラックにほとんどはだかの男女の区別もつかない人たちを乗せていた。

原爆の絵

識別コード NG277-02
絵の内容 兵隊が小型のトラックにほとんどはだかの男女の区別もつかない人たちを乗せていた。
作者名(カナ) 盛生 倫夫(モリオ ミチオ)
作者名(英語) Michio Morio
当時の年齢 14歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/7(時刻)午後
情景場所 住吉橋西詰
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離 1,390m
ブロック別 吉島・舟入・観音地区
作者による説明 **絵の中
第2図
←舟入町
明治橋→
住吉橋
本川
**裏
第2図 住吉橋西詰で、動けない人達と、死体と思われる遺体を兵士が運ぼうとしているところ(8月7日午後)
盛生 倫夫
**別紙
第2図 住吉橋西詰で、多くの動けない人達と、死体と思われる遺体を兵士が運ぼうとしているところ(8月7日午後)
盛生倫夫
 鷹野橋周辺では何人か(4、5人)の捜索人と思われる人々とすれ違ったが、明治橋、住吉橋の東詰までには死体を見ることはなかった。しかし、住吉橋の西詰で異様な情景に接した。
 元気な兵士2、3人(正確な人数は覚えていない)が、小型のトラック(4輪か3輪か覚えていない)に男か女か不明の多分息を引き取った人であろうと思われる遺体をゆっくりしたペースで積み込んでいるのをみた。14歳の少年(私)には何をしているのか直ちには判断出来ず、ひょっとするとこの中に父親がいるのではないかと考えるだけの想像力はなく、暫く立ち止まっていたが、目を反らして目的地に向けて急いで通過した。今から考えると、生死不明の赤褐色の人々や遺体は橋の袂に十数名或いはそれ以上、トラックにも数体以上はいたと思っている。橋の袂では確かに僅かな呻き声をだし、緩慢に動いている人達がいたことは確かで、トラックに乗せられていたのは、多分動かなくなった遺体であったのであろう。多くは殆ど裸に近く、赤褐色の人々の群れの中から動かなくなった人をトラックに積み込んでいるように見えた。今から考えると、ゆっくりしたペースで仕事をしていたのは、未だ生きている人達が死亡するのを待っていたのではないだろうか。恐らく此処にいた負傷者の全員が最終的には死亡し、何処かに埋葬されたのではないだろうか。 舟入町の電車通り(江波線)に到達して北に向かって歩き目的地に着いたが、そこには焼け跡の他、動くものは何もなく、遺体と思われるものも発見することは出来なかった。否、発見しようと努力をしなかったのではないだろうか。後からの話しでは、そこで亡くなった方もあったそうである。天候のせいか、意外に乾燥した風景であったと記憶している。
 同じ路を通って自転車を曳きながら帰った筈であるが、帰り道のことは記憶がない。ショックのせいであろうか。先ほど見た赤褐色の人達や、幼児の遺体についての帰り道での記憶は失われている。
 父親は、原爆投下当日は下腿に大きなガラス創を負ひ、観音町の知人宅で、1晩過ごし、翌日夕刻、杖を片手に足を曳きずりながら大河町まで帰ってきた。少年は気がつかなかったが、母親も、親戚の者も殆ど諦めていたそうである。尚、小町の第一県女から帰ってきた姉は、外傷はなかったが、殆ど動くことも出来ず、8月19日壊血症の診断のもと死亡した。
サイズ(cm) 32×40.6
展示の説明文

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