トップページ原爆の絵帰らない父親を捜しに行く。借り物の自転車はパンクしがれきの中で幼児と馬の死体を見る。
識別コード | NG277-01 |
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絵の内容 | 帰らない父親を捜しに行く。借り物の自転車はパンクしがれきの中で幼児と馬の死体を見る。 |
作者名(カナ) | 盛生 倫夫(モリオ ミチオ) |
作者名(英語) | Michio Morio |
当時の年齢 | 14歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/7(時刻)午後 |
情景場所 | 比治山橋から富士見橋の間 |
情景場所旧町名 | 宝町 |
情景場所現町名 | 宝町 |
爆心地からの距離 | 1,250m |
ブロック別 | 国泰寺・千田地区 |
作者による説明 | **絵の中 第1図 双葉山 広島駅 比治山 ←富士見橋 →比治山橋 **裏 第1図 比治山橋から富士見橋の間で幼児の遺体と馬の死体 (8月7日午後) 盛生 倫夫 **別紙 第1図 比治山橋から富士見橋の間で幼児の遺体と馬の死体 (8月7日午後)盛生倫夫 原爆投下の約3か月前(4月30日早朝)、B-29、1機が広島市上空を通過し、浜田方面で旋回して再び広島市上空を通過し、中心部に約10発の通常爆弾が投下されたことはあまり語られていない。このルートは原爆投下時の飛行ルートとよく似ている。当時、大手町7丁目8番地(現在の丁目とは異なる)に住んでいたが、我が家の近くに直撃弾が落ちて水道管が破裂し、近くは水浸しとなり、民家の住人が死亡した。近くの中国配電も被爆し火災となり、民家に延焼した。我が家は、慌てて市の周辺部(大河町)に疎開した。 原爆投下の前日、舟入町にあった県立広島診療所の当直であった父親が、原爆投下当日も、翌8月7日の昼になっても帰宅しなかった。第一県女4年生の姉は、原爆投下当日に小町の校舎から比治山を経由して奇跡的に帰ってきていたが、帰宅途中に下痢をし、帰宅してからも全身倦怠と下痢を繰り返し、床についていた。広島一中2年生の14歳の少年(私)は、己斐の広島航空に動員されていて、当日は休みのため旭町周辺にいたが、未だ事態が十分飲み込めていなかった。 原爆投下の翌日、母親や親戚の者が心配して、近所から自転車を借りて、父親の勤務していた病院はどのようになっているかを確かめてきて欲しいと云った。我が家の自転車は父親が乗って行ったままであった。 8月7日の午後、借物の自転車に乗って大河町、旭町、出汐町と通過するにつれて、次第に様相が変ってきた。その上、比治山橋を渡る前に自転車はパンクして乗れなくなってしまった。それでも、行く先には動くものはなく、寂しさのためパンクした自転車が唯一の頼り(友)となった。 大河町-旭町-出汐町-比治山橋-富士見橋(ここまでは3か月前からの通学路として何度も通っていた道である)-鷹野橋-明治橋-住吉橋-舟入町-江波線電車通-広島診療所が、この日の目的地であった。 少年は未だ、死体を見たことも、人の死に遭遇したこともなく、比治山橋を渡ってからは孤独感に悩まされていた。周辺には高いものは全くなく、安芸の小富士(似島)がいやに近く大きく見え、家庭の水道と思われる水道管からチョロチョロと水が流れ落ちる音の他には周辺は静寂そのものであった。 屋根瓦の破片と電線で一杯の道路は、喩え自転車がパンクしていなくても、乗って通ることは出来ない程の状態であった。 比治山橋から暫く行ったところで、この道路の右手(北側)の道路脇に馬の死体があった。火傷のためと思われるが赤褐色で、四肢は硬直して突っ張った様で、腹部は水膨れの様に腫れていた。 更に、暫く行くと、今度は幼児の赤白い裸の死体が、やはり右手の道路脇に水膨れの状態であった。上向きか下向きか、男児か女児か、思い出せないが、顔を見た記憶がないので、多分下向きであったのであろう。少年が人の死体を見た最初であった。目をそむけて急いで通り過ぎ、鷹野橋交差点付近までは誰にも会わなかった。 |
サイズ(cm) | 32×40.6 |
展示の説明文 |