トップページ原爆の絵プールや校庭で息絶えた中学生たち。道路側ではれんが塀が崩れ、多くの人々が下敷きになって死んでいた。
識別コード | NG271 |
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絵の内容 | プールや校庭で息絶えた中学生たち。道路側ではれんが塀が崩れ、多くの人々が下敷きになって死んでいた。 |
作者名(カナ) | 有村 行夫(アリムラ ユキオ) |
作者名(英語) | Yukio Arimura |
当時の年齢 | 29歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/8(時刻)10:00頃 |
情景場所 | 県立広島第一中学校 |
情景場所旧町名 | 雑魚場町 |
情景場所現町名 | 国泰寺町一丁目 |
爆心地からの距離 | 900m |
ブロック別 | 国泰寺・千田地区 |
作者による説明 | **絵の中 (場所)広島県立第一中学校のプールそば (時) 8.8.午前10時頃 有村 **別紙 目印となる目標物も無い焼け野原の中を、何処をどう歩いたか判らない。気が着いた時は国泰寺町にある中学校のプール近くに立っていた。黄土色に葉が焦げた一本の立木の下には、10余りの弁当箱が板の上に並べてあるが、どれもこれもアルミの蓋が熔けて、中身まで黒く焦げている。建物疎開の勤労奉仕に来た人達の弁当箱であろうか。 食料自給のために、生徒達が植えたらしい校庭空地の薩摩芋畠の中には、霜降地の学生服を着て巻脚絆をした生徒が、3人4人と此方を頭に、伏せた侭死んでいる。きっと、今私が立っている目の前のプールを目指して、走って来る途中に力尽きたのであろう。プールは校庭の芋畠より、1mばかり傾斜がついた高い台地にあって、枳殻の垣に三方囲まれているプールの水は、半分くらいしか溜まっていない。そのプール内にも四つの死体が浮いている。一人仰向けに浮いている生徒の胸には、白い記名布が見えるが文字までは不明だ。枳殻の根本を掴んだ侭、事切れている生徒も見える。みんな既に帽子も無く、13~4歳の坊主頭の少年が、細い脚に几帳面に巻いた脚絆姿も痛々しい。私はプールの方から左へ眼を転じ更に驚いた。道路脇の石垣の上にあったらしい煉瓦塀が倒れたその下に、多くの人が下敷きになって死んでいたからである。連れの家内や義妹に『此処へ来てはいけない、向こうへ行きなさい』と声を荒げた。この悲惨さを見せたくなかったのである。煉瓦塀は道幅2mばかりの道路右側の、高さ約1mの石垣の端に、更に1mくらいの高さに積んであったように思える。多分ピカッと強烈な光を感じた時、皆さんは急ぎ石垣に沿って身を隠した瞬間、ドカンと来た爆風で、頭の上から煉瓦塀が負い被さるように崩れ落ち、圧死されたのであろう。どの死体も崩れた煉瓦の下に、Vの字を横にした恰好である。火傷のような外傷もなく、40歳くらいの上半身裸の男性は頭を両膝の間に突っ込むようにして亡くなっており、その隣には、模様編みのあるトウ製の乳母車の中に、生後半年ばかりの赤ん坊が、煉瓦の塊を抱くようにして死んでいる。また乳母車を押していたお婆さんは、片手を乳母車に掛けた儘、背中に煉瓦を負ったようにして潰されていた。 それから先にもモンペ姿の婦人あり、巻脚絆姿の男性ありと、続いているが全部を確かめる気にはなれなかった。多分十数人は煉瓦塀に圧し潰されていたのではなかろうか。 全く、此の世の地獄と云うべきか。この人々の家族はどうなっているのだろう。あの乳母車の赤ん坊と、お婆さんはこの近くの人だろうに…。『南無阿弥陀仏』私は口の中で繰り返し唱えながらその場を後にした。(8月8日、帰宅せぬ義妹を探しに行って) 有村行夫 86歳。 |
サイズ(cm) | 18.2×25.6 |
展示の説明文 | プールや校庭のサツマイモ畑で息絶えた中学生たち。学校付近では、れんが塀が崩れ、多くの人々が下敷きとなっていた。 絵/有村行夫氏 1945(昭和20)年8月8日 爆心地から800m 県立広島第一中学校 雑魚場町(現在の国泰寺町) |