トップページ原爆の絵青竹の爆心地側は熱線で焼けていた。女性が子どもを連れて食べ物を探し歩いていた。
識別コード | NG270-02 |
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絵の内容 | 青竹の爆心地側は熱線で焼けていた。女性が子どもを連れて食べ物を探し歩いていた。 |
作者名(カナ) | 吉村 貞人(ヨシムラ サダト) |
作者名(英語) | Sadato Yoshimura |
当時の年齢 | |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/16頃 |
情景場所 | 饒津神社付近 |
情景場所旧町名 | 二葉の里 |
情景場所現町名 | 二葉の里 |
爆心地からの距離 | 1,800m |
ブロック別 | 牛田・広島駅周辺地区 |
作者による説明 | **絵の中 饒津神社附近で 食を求めて被爆者 **裏 被爆者の会 吉村貞人 提出 **別紙 人類の全滅。生物も全滅。と言われた原爆投下から10日も過ぎた頃に、私は食べ物を求めて、広島駅から横川方面に向かって歩いていました。広島駅から約1km離れたところに饒津神社があり、そこは広島師団の兵隊さんが戦地に行く前に祈願に、又、地元の人が神頼みをする社として知られていました。この附近は原爆投下爆心地から約2.3km離れた場所で爆心地側の原爆の光閃と熱で一瞬にして焼けた青竹電柱などの焼け跡のすさまじい光景がありました。母親がボロ布のようになりながらも子供を連れて命からがら食べ物を捜し歩く姿・・・・・。あのむごい姿、泥水でも、生草でも、焼け焦げた野菜でも食べれる物は何んでも口にする、という生きるためにお互いに頑張る姿、生存者すべての人が市外へ市外へ・・・・・と食べ物を求めてさまよう姿。60年ぶりに孫の絵の具を借りて描きました。あの心身の傷は一生忘れることはできません。どうぞ御覧ください。 |
サイズ(cm) | 38×54 |
展示の説明文 | 焼け出され食べ物を探してさまよい歩く母子 絵/吉村貞人氏 1945(昭和20)年8月16日頃 饒津神社 二葉の里 爆心地から約1,800m |