トップページ原爆の絵母親を捜している途中に遠縁のおじさんに会う。すすで真っ黒で何も身につけていなかった。
識別コード | NG269-02 |
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絵の内容 | 母親を捜している途中に遠縁のおじさんに会う。すすで真っ黒で何も身につけていなかった。 |
作者名(カナ) | 早川 耐子(ハヤカワ タエコ) |
作者名(英語) | Taeko Hayakawa |
当時の年齢 | 22歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)8:35頃 |
情景場所 | 比治山橋 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 1,710m |
ブロック別 | 比治山・仁保地区 |
作者による説明 | **裏 岡山市被爆者の会 早川 耐子 **別紙 「ホリエユキはいませんか。ホリエユキを御存知ありませんか」一人づつのぞきこんでは走りまわりました。 「Tちゃんか」と後ろから声がしました。振り返ると「ナガヒロじゃ」といいました。さっき会った学生と同じでした。「儂は千田町の文理大のグランドの前をあるきよった。戦闘帽もかぶっとった。国民服も着とった。ゲートルもまいとった。パッと光ったらこうなっとった。Tちゃん儂はのう、戦闘帽もかぶっとった………」おじさんは同じ言葉を三度繰り返しました。繰り返すたびにだんだんトーンがあがって激昂したおじさんの裂けた口から血がタラタラとながれおちました。「お上の命令どおりの服装をしていたのに、憲兵に怒られるような服装はしていなかったのに」この一瞬の理不尽さにおじさんは怒りそのゆえに千田町からあるいてこれたのだと思います。そしておじさんは体を斜め後ろにむけ、宝町の方を見ました。私の家より五軒東がおじさんの家です。いまは宝町を呑みこんでヒロシマ中が火の海で渦をまき、風を孕んでゴウゴウと音をたてていました。おじさんはそれを見るとヨロリとして片手を橋のらんかんでささえました。私も黙ってらんかんからたれさがっている血のかたまりで捩れ、足もとまで垂れさがつている皮膚を手でちぎって捨てました。黙ったまま私達は振り切ることのできない絶望を感じていました。おじさんは五年前に病死した私の父の遠縁で、厳島国民学校の代用教員をしていた私を「下宿していてはイザというとき困るだろう」といまの国鉄に入れてくれたのでした。 灼熱の八月の太陽は容赦なく爛れたおじさんの裸をやいています。私はソッとおじさんの片手を私の肩に回しました。「おじさん、日陰にいこうね」といってソロソロと比治山橋をわたり電車のレールを横切ろうとしたとき、駅のほうからトラックが一台きました。私はおじさんの手を肩にのせたまま大きく手をふりました。運転していた兵隊がトラックからおりて、荷台にもう一人いた兵隊に「おい」と声をかけおじさんの焼け爛れたお尻のしたをだいて持ち上げると、トラックの荷台からその兵隊がおじさんの二の腕を持って引き摺りあげました。おじさんはどんなにか苦痛だったと思いましたが、一言も口をききませんでした。荷台にはおじさんと同じ裸の人が四人、お尻をおとし膝をたてて黙っていました。「かあさんがみつかったらミドリイにおいで」といいました。おじさんの家族はおじさんをいれて七人ですが、彼はそのことを一言も口にせずトラックは散乱した障害物をふみしだきながら宇品にむかっていきました。私が橋のほうに向きをかえたとき、足もとにおかしなものが散乱していました。靴底でした。おじさんが「革靴もはいとった」といっていましたが、パッと光ったとき靴の甲は瞬時に焼け落ち、始めに会ったあの学生たちの靴底だとわかりました。 |
サイズ(cm) | 54.3×39.4 |
展示の説明文 | 『図録 原爆の絵 ヒロシマを伝える』 〔作者のことばから〕要約 ナガヒロのおじさん 母を捜して、一人ずつのぞきこんでは走りまわりました。後ろから声がしたので、振り返ると「ナガヒロじゃ」といいました。家から5軒先のおじさんです。裂けた口から血がタラタラとながれおちました。一瞬の理不尽さにおじさんは怒っていました。 8月6日 午前8時35分頃 1,710m/比治山橋 早川 耐子 |