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トップページ原爆の絵建物疎開をしていた女学生と中学生。熱線で焼かれて髪の毛も皮膚もなく口から血を流していた。

原爆の絵

識別コード NG269-01
絵の内容 建物疎開をしていた女学生と中学生。熱線で焼かれて髪の毛も皮膚もなく口から血を流していた。
作者名(カナ) 早川 耐子(ハヤカワ タエコ)
作者名(英語) Taeko Hayakawa
当時の年齢 22歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所 比治山下の電車通り(比治山橋、鶴見橋沿い)
情景場所旧町名 比治山本町
情景場所現町名 比治山本町
爆心地からの距離 1,750m
ブロック別 比治山・仁保地区
作者による説明 **裏
岡山市被爆者の会 早川 耐子
**別紙
皮膚を無くした学生たち
 つるみ橋、比治山橋沿い方面で、建物の残材を片づけていた学生たちである。
 学生といっても一年生は、小学六年を出てまだ四ヶ月
幼い身体で炎天下の作業中、
何千度の光線を浴びて すべての皮膚は身体から焼けはがれた。
 中学三、四年は、女子は縫製、男子は旋盤等、多少技術のいる処に回されたので、学生は、一、二年の死者が圧倒的に多かった。
**別紙
ながひろのおじさん
1945年8月6日8時35分頃  比治山橋中央
当時広島市宝町の家に母一人おいて、宇品の鉄道局で早出の掃除当番をすませ、一杯に開いた窓から身を乗り出すようにして電車みちを見ました。窓の下には局長、部長を迎えにいく車が二台、いまエンジンをかけたときでした。視界がまっしろに色を失ない窓ガラスがうちに向けて飛び散りました。悲鳴があがり窓際の机を拭いていた同じ掃除当番の土井さんの顔がガラスの破片で栗のイガのようになっていました。(当時は汽車で通勤する人は回数が少なく早く出勤している人が二、三人いた)私が土井さんの顔のガラスをとっている間に外の車に「鉄道病院にすぐ連れてってくれんさい」といって私たちは出発し、何もわからぬまま吹き飛んでいるプラタナスの小枝を踏みしだきながら今年ついたばかりの電車のレールの上を進みました。左は大田川の河口に軍の食料倉庫が点在し、右は比治山で3Kばかり走ると宇品ではプラタナスの小枝ばかり歩道に散らかっていたのが、もう根こそぎ中央の電車のレールの上にまたがり、車は動けなくなり私と土井さんは市内なので車を降りました。
しんとした道路からかすかな振動が伝わって何万もの蚊の大群がウォーンウウォーンと響いてきたと思うと、陽炎のむこうから異様な塊が近づいて来ました。この世のものではありませんでした。頭は一本の毛もなく、というより頭の皮が頭髪とともに焼け落ち体中の皮膚もありませんでした。腫れゆがんだ瞼のため顔を上にあげ糸のように細くなった目、ただれた手を顔の高さまであげ、皮膚のない指がくっつくと痛むのか五本の指も少し開いてウオーンウオーンと腫れた口から血を流しながら何十人もの少年少女たちがタッタッと焼けたアスファルトを走ってきました。人は皮膚呼吸ができぬと死ぬといいますが、まさに彼らは死にながら走っていました。
 わたしは彼等を知っていました。毎朝出勤するとき比治山橋を渡るとかならず一年生と二年生の女学生と中学生が建物疎開のために働いていました。六月頃にはまだ家があり兵隊さんの号令で大黒柱にかけた綱で家を倒す作業で煤と埃で真っ黒になっていました。
 中学生といっても一年生は小学校六年を卒業してまだ四ヵ月しかたっていない細い幼い体つきです。三年から上は女子はボタンつけなど縫製に、男子は旋盤、研磨などに回されるので単純労働は低学年になり、そのため低学年の学生に多大の死者がでました。
 地獄の釜から這いずり出たような皮膚のない体は身長もまだ伸び切らぬ幼さが残っていました。
 私は走りました。比治山橋をいっきに走り抜けました。
 ヒロシマは見渡す限り瓦礫の荒野となっていました。福屋か役所か距離感がなく二つの洋館がニョッキリ建っているだけでした。比治山橋を渡って百メートルほどで私の家に入る路地があるはずですが瓦礫で埋まり鷹の橋に続くアスファルトの狭められた道が白く光っているだけでどうしても入ることができません。黒い瓦のしたから透明な炎が見えていたのにもう私の上着の裾があぶられ髪がチリチリと焼けて、比治山橋まで後退しました。私の足もとには大きな馬が横倒しに死んでいました。炎の中から真っ黒な人が転がり出て橋まで走り、私も橋まで走りその人を見ました。煤で真っ黒なその人は男の人でした。母ではなかったことは安心より不安が募りました。橋の両脇には煤で真っ黒な人が数人放心したように蹲っています。
サイズ(cm) 38×53.8
展示の説明文

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