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トップページ原爆の絵道端にある防空ごうに黒焦げになった死体を見た。腹帯をしていて妊婦のようだった。

原爆の絵

識別コード NG265
絵の内容 道端にある防空ごうに黒焦げになった死体を見た。腹帯をしていて妊婦のようだった。
作者名(カナ) 中澤 彪(ナカザワ タケシ)
作者名(英語) Takeshi Nakazawa
当時の年齢 18歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/8
情景場所
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **別紙
八月八日は朝から晴れ、暑い日であった。六日に、県病院に受診のため出かけたYさん、建物強制疎開の勤労奉仕に出かけた中学生のK君が未だに戻らないため、隣保の人達と探しに行くことになった。当時、私達一家は七月の呉市の空襲で焼け出され、伯父を頼って安佐郡亀山村河戸に仮寓していた。可部線が三滝まで通っていた。三滝の駅近くで線路に飛び降り、横川に向う。焦げた臭いが充満し、横川の街は瓦礫と化し、何十という死体が並び、その間を多くの人が右往左往していた。ここで隣保の人達は銘々に探すこととなり別れた。横川橋(?)の上では、トタン板を日除けにして坐っている二人の老婆に憲兵が身元調査をしていた。廃虚と化した街は方角が分からない。河原町で生まれ育った父に従って、電車路に沿って歩く。あちこちに焼けただれた電車が鉄の骨格を見せて立ち止まっている。十日市で左折、暫く行くと道傍にある防空壕に黒焦げになった死体を見た。薄よごれてはいたが腹帯をしている。妊婦さんのようである。思わず手を合わせた。当時私は岡山医科大学附属医学専門部に入学(七月二十日、学徒動員のため、おくれている)したばかりであったが、生命の尊厳をこの時ほど強く感じたことはなかった。近くで焼跡の整理をしていた婦人が「ここに産婦人科があって、警報で防空壕に退避して火に巻かれたのでしょう。可哀相なことです」とおっしゃった。相生橋は、欄干、橋壁は崩れ、一部は川底に沈んでいた。河畔の木陰に人影が見え、バケツで水を汲んでいた。その数十メートル上流に死体が二つ漂っていた。橋上で父は遥か彼方を指差し「河原町は全滅だ。わしの生れた家も焼けてしもうた」。その後、父は生家の話は一切しなかった。また一方を指差し、「県病院も見えん。Yさんはどうなったか」。前夜、被災死した義兄を、太田川の河原で流木を集めて荼毘に付した父の顔には無常観に溢れていた。産業奨励館は丸い鉄骨を見せて、毅然として立っていた。廃虚に聳える福屋を目指して歩を進める。焼けたアスファルトの道路には、幾十の死体が、火傷による水泡が破れて漿液が流れ出し、薄い皮を被った人形のように並べられていた。手掛かりが全くなく、白島方面へ行く。行けども行けども、瓦礫と死体の街である。水道管が併設されている橋を渡った記憶がある。三滝の駅に辿り着き、帰途に着いた。六日後、岡山の学校に帰り、翌日終戦を迎えた。後日、県病院の焼跡からYさんと同じ名字の水晶の印判が見付かったが、Yさんの物かどうか確認出来なかったこと、K君は瀕死の状態で牛田の民家に収容されたが、そのまま絶命したと聞かされた。父は河戸と呉間を絶えず行き来したせいか、昭和二九年、琳巴肉腫に罹り、五十六才で亡くなった。母はピカドンのせいだと恨んでいた。私自身、一時白血球減少症の時期もあり、目・鼻・腰・膝の疾患に罹り、何度か手術も行ったが、多病息災と今まで診療を続けている。今以て、被爆者手帳の申請は行っていない。因みに間もなく七五才を迎える。
ナカザワタケシ
中澤彪
七四才
医師
サイズ(cm) 22×26.5
展示の説明文

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