トップページ原爆の絵川の中には遺体が流れ、それを救援の人たちが川原に引き上げ荼毘に付していた。
識別コード | NG264-02 |
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絵の内容 | 川の中には遺体が流れ、それを救援の人たちが川原に引き上げ荼毘に付していた。 |
作者名(カナ) | 八木 義彦(ヤギ ヨシヒコ) |
作者名(英語) | YAGI Yoshihiko |
当時の年齢 | |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/8 |
情景場所 | 三篠橋の東側の川土手 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 1,470m |
ブロック別 | 基町・白島地区 |
作者による説明 | **裏 八木義彦 **別紙 私は昭和二十年八月六日、白島国民学校で被爆しました。 当時四年生で夏休みながらその日は登校日で、北側の校舎二階にいて一瞬に崩壊した木造の校舎から、辛うじて逃げ出し九死に一生を得たのです。 そのまま母親の郷里の高田郡三田村へ避難しました。 翌々日の八日早朝から、親兄弟の消息を求めて市内に出掛けて目にした惨状です。 三篠橋のたもとにあった我が家に向かいましたが、家は跡形もなく焼け家族の消息も不明でした。二枚目は三篠橋の東側の川土手からの描写です。 橋の欄干は全部倒れ燻り続けるビル。咽の渇きから水を求めて川に入った負傷者が、そのまま水死して累々と流れていました。 流れる遺体を小舟や筏に乗った救援の人たちが、材木用の手鉤で砂浜に引き上げて積み重ね油をかけて荼毘に付していました。 手前の大木は後に被爆榎として芽吹いた木です。消息不明の私の家族五人は全員被爆死しました。 人類史上初めての核兵器投下による惨状は、人間として生きる権利や尊厳を完全に奪われた悲劇でした。 八木義彦 |
サイズ(cm) | 19.5×28.7 |
展示の説明文 |