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トップページ原爆の絵火炎がどんどん増え大きな夕陽のような火のかたまりになった。縄のような柱が立ち上り雲になった。

原爆の絵

識別コード NG262-03
絵の内容 火炎がどんどん増え大きな夕陽のような火のかたまりになった。縄のような柱が立ち上り雲になった。
作者名(カナ) 中西 俊佳(ナカニシ トシヨシ)
作者名(英語) Toshiyoshi Nakanishi
当時の年齢 10歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所 松山市吉藤町
情景場所旧町名 松山市吉藤町
情景場所現町名 松山市吉藤四丁目
爆心地からの距離 63,000m
ブロック別
作者による説明 **絵の中
 図解説明(経過をおって)(1)~(4)
(1)黒く縁どられた火災がどんどん増えていきました。
(2)そして最後は大きなきれいな夕陽のような火のかたまりになりました。
(3)ヒュルヒュルと立ちのぼる縄の柱
(4)縄の柱の頭がふくらみ雲となった
(5)目撃した位置関係(松山市吉藤町ヨリ)

連華寺
谷町
潮見山
吉藤
潮民国民学校
大川
役場
吉藤川
原種田橋
私の位置
原種田
吉藤

俊佳記

**別紙
NHK広島放送局「原爆の絵」係御中
2002年7月
中西俊佳(67才)
わたくしは広島の原子爆弾の炸裂するその瞬間に出合っています。
その時の様子を版画に彫ってみましたのでお送りします。1945年(昭和20年)8月6日午前8時過ぎ私は、近所の友人たち7、8人と共に、松山市立潮見国民学校へと急いでいました。最年少者は3年生、最年長者は髙等科2年生で私は5年生でした。学校は北の方向で、わたしたちは丁度北進中でした。
松山市吉藤町の通称原種田(げんしゅでん=現在吉藤4丁目)に差しかかった時、突然谷町の上空に大きな火の玉が現われました。火薬が炸裂してそれが増殖するようでした。そして最後は太陽の何十倍もありそうなきれいな夕陽の“火のかたまり”になったのです。
間もなく火の玉は消え、その跡に黒っぽい灰色の大きな縄状のものが天空に立ちのぼり、柱となって、その上段が大きくふくらみ、グリグリ、モクモクと雲のかたまりになりました。地上の何もかもが吸い上げられるようでした。
最初から見ていた私たちは、アーアー言い乍ら恐れ、戦き、「あれ何んどう!」「これ何んどう!」と言うのが精一杯でした。その私たちに大地をゆるがす大爆音・ズドーンが襲いかかりました。
昭和20年当時潮見国民学校の校舎には、松山航空隊予科練習生が多数寄宿していましたが、あの時丁度外出中だったのか1人の予科練さんに会ったので「あれは何ですか」と尋ねると、「わからん!走ってはいけない。」「急いで帰りなさい!」といって下さったのが耳に残っています。
それから2時間位い後には、煙は向って左方向に流れ、瀬戸内海を渡ってこちらへやって来るように見えました。(広島から西南方向に流れたのではないかと今も思っています)
その日から2、3日経って、近所のMさん宅に広島で被爆された方が身を寄せられました。全身火傷でわずかに出ている顔も黒く、はれていました。
以上これが松山市吉藤で出合った私の「ヒロシマ」です。
版画をつくるに当って、私はベニヤ板に錐で穴を穿ち、彫刻刀で線を刻みました。白い穴は、錐を揉んだあとですが、あれは被爆者1人1人のつもりです。「わたしはここにいるよ」「こんなことがあってはいけないよ!」という被爆者の叫びです。
ひたすら錐を揉む
平和への願いをこめて
被爆者の数ほど
わたしは
錐を
揉みつづけます
2002年6月 中西俊佳
サイズ(cm) 17.7×23
展示の説明文 火炎がどんどん増えて

爆心地から63㎞
松山市吉藤町 (現在の吉藤四丁目)
1945年(昭和20年)8月6日
中西 俊佳 (原爆投下時10歳、絵を描いた時67歳)

【作者のことばから】
突然上空に大きな火の玉が現れました。火薬がさく裂してそれが増殖するようでした。そして最後は太陽の何十倍もありそうなきれいな夕陽の“火のかたまり”になったのです。
間もなく火の玉は消え、その跡に黒っぽい灰色の大きな縄状のものが天空に立ちのぼり、柱となって、雲のかたまりになりました。地上の何もかもが吸い上げられるようでした。

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