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トップページ原爆の絵校舎が揺れ、西側の窓から広島の方向に巨大な雲が昇って行くのが見えた。

原爆の絵

識別コード NG259
絵の内容 校舎が揺れ、西側の窓から広島の方向に巨大な雲が昇って行くのが見えた。
作者名(カナ) 仲根 鉄郎(ナカネ テツロウ)
作者名(英語) Tetsuro Nakane
当時の年齢 18歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6(時刻)8:15
情景場所 警固屋国民学校
情景場所旧町名 呉市
情景場所現町名 呉市
爆心地からの距離 23,000m
ブロック別
作者による説明 **絵の中
2002.6.25 T.NAKANE
**別紙
拝啓
うっとうしい梅雨が続いています。原爆の絵を送ることについて私の自己紹介と当時の説明をさせて頂きます。私は戦争中海軍で一等巡洋艦青葉の乗組員でした。当時未だ十八才で海軍上等水兵で青葉の機銃員でした。昭和二十年七月二十四日から二十八日の間に米軍の艦上機により呉附近の大空襲があり我が艦は呉の南方音戸の瀬戸近くの警固屋町鍋の沖に停泊しておりました。そしてグラマン戦闘機と壮烈な戦闘を致し、激闘の末、二十八日に爆弾多数をうけて沈みましたが、海が浅く上甲板は海上に出ていましたが艦内は浸水して何も出来なくなり警固屋の小学校に世話になることになりました。
運命の日八月六日、朝の課業始め(海軍の朝礼みたいなもの)が終り、私は二階の作法室に上がって来たとたん(八時十五分頃)広島上空で、ものすごい光が走り一瞬あたりが明るくなりました。何事が起きたかわからず何だろうと隣りにいた戦友と話をしていました。かなりの時間が過ぎてから大音響と共に爆風と爆音が同時に襲って来て、まるですぐ近くに爆弾が落ちた様に校舎がゆれました。作法室が校舎の一番西の端の教室で又西側が窓になっていて広島の方向は良く見えました。この絵はその時の私の眼にうつった光景です。生まれて初めて見る巨大なそして美しいキノコ雲でした。そして次第次第に上空に昇って行きました。二、三日たってからこれは新型爆弾と言う事をきき、大変なことになったと痛感しました。私もすでに七十五才を過ぎ愈々老人になって参りました。それで原爆の目撃者として前々から何とか絵にならないかと思って、私の住む小牧市の市民展に今年は原爆の絵を描くことにきめて色々考えておりましたが、NHKで絵を募集してお見えときき、出品することに致しました。何しろ五十五年にもなりますので、どうゆう風に描くか色々考えましたが先ず現場に行ってこようと思い立ち、警固屋小学校校長先生宛に手紙を出したところ、先生は「当時の話がききたいので是非おいで下さい」と言う手紙を頂き、本年五月十四日一人で警固屋に行き、先生と話をして参りました。学校の様子も変り、校舎も木造から鉄筋になっていて作法室のあったところはプールになっていました。それでも当時の面影がなんとなくあり、本当になつかしく思いました。校舎の四階から西の方を眺めると、江田島や天応あたりの景色は変っておりませんが、しみじみ当時の事が想い出され、本当になつかしく思いました。今回この絵を出品するに就いて、あまりきれいなのであの原爆の悲惨さには合わないと思いますが、私の眼の底には今もこの様にはっきりと残っており従って思ったままに描きましたので誤解のない様にお願い致します。
以上、半世紀以上前の思い出をたぐり乍ら思った事を書きましたがまとまりなく失礼をさせて頂きます。
NHK原爆の絵係様
仲根鉄郎 青葉乗艦―旧姓(水野)
サイズ(cm) 60.5×72.5
展示の説明文 警固屋国民学校から見たきのこ雲
爆心地から23km 警固屋国民学校(広島県呉市)
1945(昭和20)年8月6日 8:15
仲根 鉄郎(原爆投下当時18歳、絵を描いた時75歳)

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