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トップページ原爆の絵橋の向こう側で電車が燃え、青い空にドーナツ型の雲が流れていた。やけどした人が裸足で歩いていた。

原爆の絵

識別コード NG251-01
絵の内容 橋の向こう側で電車が燃え、青い空にドーナツ型の雲が流れていた。やけどした人が裸足で歩いていた。
作者名(カナ) 住田 和之(スミダ カズユキ)
作者名(英語) Kazuyuki Sumida
当時の年齢 7歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所 御幸橋
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離 2,270m
ブロック別 国泰寺・千田地区
作者による説明 **絵の中
住田和之 64才
**別紙
昭和20年8月6日8時15分被爆
当時尋常皆実国民小学校一年生(満7才)
8時10分警戒警報になり、家を出る途中友達二人と一緒になり三人で寺子屋に向かう。三年生以上は学童疎開をし一・二年生は親元におり、近くのお寺で勉強(当時高い建物や、狭い路地等は空襲を受けたらみな町が燃えてしまうので学校も対象になったのだとおもいます。)御幸橋の上で被爆、ピカーと光ドーンと大きな音、爆風で飛ばされ橋のたもとで気がついてあたりは真っ暗なやみのようでした。この時、橋の向こう側で電車が燃えていたのを覚えています。自然に足は家の方向に歩いていたのだと思います。帰る途中畑の麦わらが燃えていました。
青い空にドーナツ雲が東に流れていました。家に帰ると玄関に母が弟の頭を白いシーツが血で真っ赤に染まったのをおさえて座っていたのを覚えています。
私は左半身皮がだらりとさがり、家の中に入りました。家は西側の壁が二階から下まで全部崩れ、足のふみばの無い状態でした。祖母は生まれたばかりの妹をだきかかえていました。昼頃兵隊さんと一緒に県病院と広島日赤病院に治療につれて行ってもらいましたが、病院の外も中もやけどをした人々でいっぱい。あっちこっちから、水をくれー 水をくれーと泣きさけぶ声が今でも聞こえてきそうです。
崩れた家々からも助けを呼ぶ声。助けてくれー。家々は火の見えるところも有りました。
どちらを向いても体中がみな赤身でぼろぼろ、どこへ行くのかわからないと言って裸足で歩いている人々。
私は一度家に帰り宇品の陸軍病院(あかつきぶたい)に母と一緒に行き治療をしてもらいました。後で母から聞いた話ですが、左半身の皮をピンセットで全部とりのぞき、白いねばねばした油薬を体全部塗ってもらったそうです。毎日ガーゼ交換に兵隊サンが来てくれたそうです。治療中の痛さははっきり覚えていません。
夜は近くの大きな防空ごうに入り(空には探照燈)大きなむすびを町内会の人達が配っていたのを覚えています。
市内は三日三晩燃えたそうです。
幸い宇品、こうりょう、皆実町、比治山(一部)、段原は焼失をまぬがれました。
毎年8月がくるたび辛かった思い出がよぎります。
住田 和之 64才
サイズ(cm) 23.3×33.1
展示の説明文

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