トップページ原爆の絵昭和20年3月頃、東練兵場であった空襲を尾長国民学校から見る。
識別コード | NG245 |
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絵の内容 | 昭和20年3月頃、東練兵場であった空襲を尾長国民学校から見る。 |
作者名(カナ) | 桑原 寿子(クワハラ ヒサコ) |
作者名(英語) | Hisako Kuwahara |
当時の年齢 | 24歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/3 |
情景場所 | 尾長国民学校 |
情景場所旧町名 | 尾長町 |
情景場所現町名 | 山根町 |
爆心地からの距離 | 2,850m |
ブロック別 | 牛田・広島駅周辺地区 |
作者による説明 | **絵の中 講堂 プール 不発弾 校庭 防空壕 呉方面 皆が空爆を見ていた所 2階建校舎 1階職員室 ここに坐っていた 道 ドブ川 東練兵場 広島駅 **別紙 先日原爆の絵を募集していらっしゃるテレビを拝見して、私は多分1ヶ月位経って広島の焼土と化した街を公務の為さまよった経験を書いて応募しようと思いましたが目の底に焼きついた景色はとても絵には描けません。只、広島が原爆の前3月の初め頃だったと思いますが、小さな空爆を受けた事を御存じでしょうか?知っておられる方は極く少ないと存じます。この機会にその時の様子も御調べになったら・・・・と思います。これは今まで誰も調べていない事ですから・・・・。 当時私は尾長小学校に勤めていまして、学校の前の東練兵場で同僚と呉の空襲を見ていました。 尤も私は近眼で皆が同じ場所で急降下して呉工廠を爆撃する様子を話しているのに見えなくて職員室に眼鏡を取りに参りました。出て来た時、校舎の上から爆音が聞えるので「あっちから爆音が聞える」と云いましたが「聞えるはずがないだろう」と皆が笑いました。然しそのあと直ぐ校舎の上からグラマンが一機急降下してきたのです。翼が見る見る大きくなって皆慌てゝ防空壕に走りました。私は一番あとから橋を渡りましたので、とても防空壕まで行けないと思ったので校舎の階段に坐っていました。グラマンは急降下して目の前の練兵場に火の雨を降らして広島駅の方に飛び去りました。 私はオレンジの雨を綺麗だなあと見ていましたが講堂の辺りで爆弾が炸裂。続いて私の坐っている階段の上のガラス片が飛び散り、一寸怖い思いをしましたが、あとで皆が弾を集めているのを見ると私の坐っていた右1mと左1mに1個ずつあって全く運が良かったと感じました。2階から下までつき抜けるとは思っていなかったので・・・・。この空襲で校区で1人亡くなった方が担架で運ばれてきました。三十代前半位の婦人は一度防空壕に避難されたそうですが、何か大切な物を取りに引返され爆撃で倒れた家の下敷きになられたそうです。この爆撃で私は呉に父を一人残している事が心配になり、転勤を決意。呉市本通小学校に転勤しました。この学校で7月2日夜空襲に遭い、丁度防空壕の中に入れていた書類が湿気で濡れているので職員室に拡げて干すようにしていたので全部灰になって了いました。職員の履歴書も無くなった為、私は学校長の命令で広島県庁に行って写してくるよう云われ出かけました。8月の暑い日だったと思います。県庁は己斐に移転していて、広島駅の次ですが電車は不通、私は3年広島に居て大体わかるつもりで歩きました。 焼焦げた町、真夏の暑い道を聞く人もなく、見渡す限り黒焦げの家の中に所々鉄筋のビルの残骸。昔の面影の無い街を、然し何とか県庁に着きました。 呉で一番大きな学校で全員の履歴書を写すのは思った以上に大変で、その上御弁当も水も持って行かなかったので平素の食事情もあり、今考えるとよく倒れなかったと思います。人一人通っていない街を話で聞いた被爆者のすさまじい有様が思い浮かばれ、又偶然に見た銀行のビルの台石に腰かけていた為影が残っていた大理石、大きな木の立枯れ(この木はその後芽を出して皆を感動させました)兎も角一面真黒で普通の火災の跡とは全く違う風景。思い浮べる風景はとても絵になりません。 今、私の願いは広島が初めて空爆を受けた日、何か記録が残っているかと云う事です。私は現在81才8月には82才になります。約60年前の事ですから、仮に知った方が居られても本当に少ないのではないでしょうか。当時の事は余り覚えていませんが「月月火水木金金」と唱われ、休みのない時代で出勤させられていたが児童は居ませんでしたから多分月曜日ではなかったかと思います。 もう一つ、原爆ドームの思い出。尾長小に勤めている時、当時としては珍らしい円形の階段を児童を引率して見に参りました。戦果の展示だったか、山本五十六大将が敵将と講和条約の談判・調印をしておられる油絵で強い感銘を受けました。話がそれましたが広島に原爆前にこんな空襲のあった事、それから広島は家を破壊して類焼を防ぐ努力も空しく然しその為、私が世話になっていた一家は九州に帰られて無事でしたし、かなりの方が助っておられると思います。私の夫は肺ガンで平成2年に亡くなりましたが結婚の支障になると思い申請していなくて、被爆手帖を申請したのは随分あとでしたが、本人は余り話したがらなくて、それ丈悲惨だったと思います。段々体験した人も少なくなり次第に忘れ去られるように思われ、今回の取り組みを一層進めて頂きたいと・・・・御健康御祈り致します。 桑原 寿子 |
サイズ(cm) | 25×17.5 |
展示の説明文 |