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トップページ原爆の絵警防団や兵隊さんが焼け跡から死体を集めていた。焼けて男女の見分けもつかなかった。

原爆の絵

識別コード NG241
絵の内容 警防団や兵隊さんが焼け跡から死体を集めていた。焼けて男女の見分けもつかなかった。
作者名(カナ) 河野 寛治(コウノ ヒロハル)
作者名(英語) Hiroharu Kono
当時の年齢 23歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/9
情景場所 左官町電停前
情景場所旧町名 左官町
情景場所現町名 本川町
爆心地からの距離 480m
ブロック別 十日市・中広地区
作者による説明 **絵の中
河野 芸観
**裏
原爆原頭の祈
場所 広島市中区本川町
河野 芸観 八十一才
**別紙
一九四五年(昭和二十年八月六日午前八時十五分)晴天の日でした。米国の投下した原爆により広島はピカッと一度すごい光線で、その時私は天満町に仕事のため自転車のパンクを修理中、店の中にいました。
土地にフセて…アット思うまもなくこの家の下敷に合い、そのまま、真っ暗な中で背中に家の倒れた大きな横の木が私を押さえて動けなかったので土地を指先で少しずつ掘ったので暗い中で息が出来るようになり何んぼう力をいれても背中の木が重くて動けなんだのが、体を一寸ななめにうごかして、そしたら動けた。どうしても助かりたいと一生懸命にもがいて手先で土壁の土をつめ先がいとうてもガリガリ土をのけてやり手が上に動いたので力一ぱいカエルのようにハネて見ましたら力一ぱいやったおかげでバリバリとコマイダケをヘシヤブリそのまま上に出た。その時は外はまっかな火が広がってボウボウと大火事であった。どこを見ても人はあっちこっちと逃げまどうていました。私もついてどこをどう歩いたかわからず川に入りました。(天満川)人は何百人かわからない位、川に入って中には横になって浮いて死んだ人が多くいましたが、私はそれから何十列かの人が電車道を歩いて逃げる西に向って一緒に入って逃げました。
とにかく逃げることだけ一生けんめいでしたから、どこにいると云う場所は全くわからず家が火がついて燃えても下敷の人を見のがすしか手のほどこしようがなかった。どっちを見ても火の中をかけるだけで中には体中が血だらけで皮がムケて赤身が出たり目玉がとび出たり、口ビルが大きくはれあがったりまるきり人間の姿でなく化け物のようそうです。一人もケガ人は全部らしく中には歩けんようにそのまま下にしやがんで横になっていたいいたいいたいとおらんでいる人、泣きさけぶ多くの人々でゴッタガエシテどこをどう歩いたか今もワカランのです。そして私は人とハグレテ安芸女学校の畠の中にすわって横にねていました。
もう夕方に近くなっていました。しかたなしに野宿する人は大ぜいそこにいました。夜中はあっちこっちまだ火が燃えてよく見ました。中には次々と水・水・と水をくれとさけび声がほうぼうから聞こえましたが水は無くてそのまま見殺しのままいろんな人々が次々と死んでしまいました。何んとも今、思っても生地獄でしたよ。夜中もねられずこまりました。隣りの人も死んで行きました。もう何十人いたかわかりません。畠や野原の中で次々と死にました。とてもどうする事も出来ず私も泣きました。朝になったが大分人がいませんでした。死んだ人が多かったのと、又、どこかに逃げていったのだと思って私は草をちぎって口の中にほおばりましたがのどにとおらずにがいので草をはきすてました。そうして、又人々が次々と逃げまどうのです。
私は家があった方に行くことが出来ずに火が燃えおわるまでまちました。一日目も二日目もうろうろしました。知った人にあえませんので三日目に広瀬の方に三滝側をまわり横川の駅のあった方に歩いて出て、ようやく鷹匠町の家があった場所に来ました。どこも皆んなけんとうもつかぬよう燒けて髙木のしるこやのあった場所をさがしました。まるきりどこもわからんよに火はまだあっちこっちが燃えていてあつうて通れん位です。三日目の十時家のやけた所をさがしました。実の兄、姉、そして三日前の生まれた男の赤んぼう(三人)共、燒けていました。その骨をもって帰るのに一尺五寸位を土(ガラ)を取りのけて骨をひろうたのです。そして家のまわりに警防団の人や兵隊さんが燒けた人をかきあつめて道の横の方に何ヵ所も焼けた死体をあつめられていました。男の人か女の人か全くどこかどうかはみわけがつかんように焼けて黒こげでした。私は手を合わせて、ナムアミダブツばっかりとなえました。涙が出てとまりません。
火は一週間以上ひろしまの街の中を毎日燃えています。中学生が何百人と立ちのきのそかいの勤労奉仕のため一列に横にそのまま何百人か死んでならんでいました。私はそれを見て涙がとまりません。なきながら、ごめんよごめんよといいながら私は死体の中をまたげて歩きました。だい分長い死体ばかりでつらい思いをしました。死体は一週間位たつとくさりだし、暑い夏の中でずるむげになって死んだ人の肉から血と油のようなすごいひどい死体のにおいとが息苦しい思いでした。ウジがわいてキズ口からはいでています。そして、それがハエになって何百匹になって黒々として見るのもとてもかわいそうに思いました。何十人もの死体はいつまでもいつまでもほってありました。人々は逃げまどうばかりで誰一人死体をめんどうみませんでした。次第に腹がへってやっぱり何か喰い物はとさがしました。一切なかって兵隊さんがニギリめしを私に三つ下さいました。その時に「すみません」と一言いいました。ニギリめしはすぐたべずにもっていました。何日もてるかわからずにとても家族の事が気になってさがしました。人のいいづたえでわかりました。やはり皆んなバラバラに逃げていたのです。そして雨が降っても黒い雨で体中にかかり、黒い墨をぬったようにとてもきたのうになりました。焼けたトタンをひろうて来てそこの中にしやがんでがまんしました。雨は降ったりやんだりです。
この作品は「原爆原頭の祈り」と題名します。昭和二十年八月九日(投下されて三日後)今の相生橋より西に向って左官町(電停前)本川町です。その時に亡くなられた人々をそのまま写生しました。本当の場所です。
平成十四年七月十五日
NHK様
河野 芸観
八十一才
サイズ(cm) 58.3×80.2
展示の説明文

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