トップページ原爆の絵トラックが運動場に入ってきて黒くこげた荷物をおろしていた。よく見るとそれは人間の死体だった。
識別コード | NG227 |
---|---|
絵の内容 | トラックが運動場に入ってきて黒くこげた荷物をおろしていた。よく見るとそれは人間の死体だった。 |
作者名(カナ) | 山肩 和彦(ヤマガタ カズヒコ) |
作者名(英語) | Kazuhiko Yamagata |
当時の年齢 | 7歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/8(時刻)10:00頃 |
情景場所 | 大河国民学校 |
情景場所旧町名 | 旭町 |
情景場所現町名 | 旭一丁目 |
爆心地からの距離 | 3,150m |
ブロック別 | 比治山・仁保地区 |
作者による説明 | **絵の中 油 薪 麦ワラ カバン他学用品 -大河小学校- 1945.8.8 **別紙 原爆の後 8月6日 今日も又晴天の暑い日である。 午前7時50分小学校に登校してすぐ警戒警報のサイレンが鳴った。 運動場に居た者は全員教室に入った。 生徒は小学1、2年生の在校生で、3年生以上は三次・庄原方面に疎開していた。 午前8時すぎ警戒警報解除となった。 私達は安心して先生のこられるまで教室内で雑談していた。 突然目の前でカメラのフラッシュをたかれたような閃光が顔をおゝった。 私は両手で顔をかくし「ヤメテクレ」と叫んだ。そして手を開くと窓の向う比治山の左方で火柱と黒煙が天に向って立ち登っていた。 ふり返り運動場を見ると、運動場全体の砂が風圧で塀に当り、それが一直線に天に向って昇っている。まるで砂のカーテンのようであった。 「机の下に入れ」と誰かゞ叫んだ。 しかし、二、三人が窓から飛び出した。 私もついて窓から飛び出し、ハダシで家路に向った。 途中立ち止まり首すじをさわると血が手についた。ガラスで切ったのであろう。家に帰ると隣のおばさんと出会ったが顔面がオイワのようにはれあがっていた。壁が倒れ顔面に当ったらしい。 家の家族は無事のようだ。 父は小町の中国電力に勤めていたので出勤していれば死亡していたであろう。 たまたま前日通勤用の自転車がパンクしたのでそれを修理し、午前7時30分頃出勤しようと500メートル位行ったところで又自転車がパンクした。 この時、引返し自宅前で座り自転車の修理をしていた。自宅前はトウキビ畑であった。 閃光と爆風はこのトウキビ畑でさえぎられ後に転倒したゞけであった。 運の強い人であったようだ。 自宅前の黄金山ふもとの高台に登って見ると市内一帯は火の海であった。 自宅前黄金山のふもとには洞窟が4ヶ所あり、兵器庫の荷物の一部が入れてあった。 疲れてその洞窟に入り休んでいたが、いつのまにか眠りこんで夕方まで寝ていた。 翌朝、仮宿として近所のお宮の境内に荷物を運んだ。そこで当分過ごすことになる。8月8日学校にカバンを取りに行った。 教室に入ったが何もなく、窓辺より飛び出た所を見ると窓下はガラスがコナゴナで小山になっていた。そこにハダシで飛びおり家路に向ったのだ。良く足を切らなかったものだ。 教室より運動場に出てみるとカバンなど学用品が並べてあった。私のカバンはそこにはなかった。 トラックが運動場に入って来た。 黒コゲタ荷物を積んでいた。 近くになりよくみるとそれは人間の死体である。まるで火事で柱が焼け芯だけ焼け残ったような………… トラックがそれを何度も運んで来て、それを消防団の人達がトビグチで降ろし、運動場の砂場に積み上げ、その廻りを薪、わらで囲みその上からコールタールをかけ焼き尽していた。 再度、校内の教室を見て廻ると教室内には大ヤケドで動くことが出来ない人が何列も並んで寝ていた。 廊下には座れる人が並んで座っていた。顔の皮がタレさがっている人、足の皮がない人等まるでこの世の地獄図である。 しかし、それを私達友人と見て回ったが皆んなそのような人々なのでか特別な感じをもたなかったように思った。 教室内の人々を4、5日後見た時は傷口にウジが沸いていた。 カユイともがいている人、黙って知らない顔をしている人……‥ 何日も私達はそれを見る日々であった。 その後学校が始ったが、教室内の壁には、苦しくもがいた黒い手の跡があちこちとついていた。 運動場の砂場は片付けてあり、何もなかったように見えたが、子供達が砂穴を掘ったりしていると、人骨が出ていた。 又雨の夜など砂場近くの塀には燐火が這っていた。 そのようなことが当分続いた。 原爆により顔面等身体に大きなケロイドを残し思春期を過ごした人、原爆投下の被害は直接受けなかった為、元気な人が被爆したであろう親、兄弟、知人等を捜しに投下中心地に出向いた為に、ガスを吸い込み、数ヶ月後死亡した人。体調を悪くし病んでいる人もいる 現在では医学の発達でケロイド等は整形手術で一見わからないように出来ているが、体調の悪い人々の異変は永く続いているようである。このような惨事は絶対に再発のないことを願う。 ◎当時(1945年)昭和20年8月6日 大河小学校2年生 山肩和彦 |
サイズ(cm) | 26.9×38 |
展示の説明文 | 『図録 原爆の絵 ヒロシマを伝える』 〔作者のことばから〕要約 黒こげた荷物 トラックが運動場に入ってきた。黒こげた荷物を積んでいた。近くになり、よく見ると、それは人間の死体である。消防団の人たちがとび口で降ろし、運動場の砂場に積み上げ、まき、わらで囲み、コールタールをかけ、焼き尽くしていた。 8月8日 午前10時頃 3,150m/大河国民学校 山肩 和彦 |