トップページ原爆の絵父は額を5針も縫う傷を負い両眼は失明状態であったが、竹の杖をたよりに一人で家に帰り着いた。
識別コード | NG226-03 |
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絵の内容 | 父は額を5針も縫う傷を負い両眼は失明状態であったが、竹の杖をたよりに一人で家に帰り着いた。 |
作者名(カナ) | 西山 勝登(ニシヤマ カツト) |
作者名(英語) | Katsuto Nishiyama |
当時の年齢 | 18歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/8 |
情景場所 | 段原大畑町 |
情景場所旧町名 | 段原大畑町 |
情景場所現町名 | 段原一丁目 |
爆心地からの距離 | 1,900m |
ブロック別 | 比治山・仁保地区 |
作者による説明 | **絵の中 「父帰る」 爆風でとんで来た器物で顔面をたたかれ、ひたいを5針ぬう切きず 両眼失明の重傷にまけず千田町から段原大畑町まで竹の杖をたよりに、帰り着いたのは、被爆から三日目のことであった。 **裏 西山勝登 **別紙 『父帰る』 宇品千田町の会社の事務所で被爆したとき、爆風で飛んで来た物に顔面をたヽかれてひたいが割れて顔面血だらけとなり両眼の視力を失ってしまった父は、部下の女事務員に助けられて会社を出てつきそってもらって日赤にゆき、軍医に応急処置として5針ぬってもらった。 女事務員の話で広島が大変な事になったと知らされたが、にわか盲のため、まったく見当つかず、彼女も家が気になるので帰って行った。それきり声をかけてくれる者もなく聞えて来るのはうめき声だけ。置きざりになった。時間がたつにつれて不安はつのり、このままで居たら死んでしまうと思い、痛む傷口と両眼をおさえながら手さぐりで病院の外まで出た。左眼を指で無理に押開けて、わずかボンヤリかすんで見える視力をたよりに5、6歩づつよろけながら行ってはとまり休んで又行った。右眼は全く開かなかった。家はどうなったであろうか。 火災がせまって来た事は察知出来たがどこへ向って行ったら安全なのか予測がつかない。とにかく家をめざして帰って見ようと、途中でひろった竹の杖と一枚のコモをかぶって体力のつづくかぎりと決心し決死行がはじまった。 夜になるとヤブ蚊のむれにおそわれ、コモをかぶってヤブ蚊と寒さに耐え朝になると又ぼつぼつと歩いた。救助に来てくれた人に様子をたずね道をたずねながら家族たちはどうなったであろうかと案じながら、ひたすら歩みつづけたのであった。その頃、長兄と次男の私は被爆した日から家族の行方を尋ねたが歩ける人は郊外に向って避難して行ったので全く見当つかず。その日発生した火災は火勢を強めて一晩中燃えつづけて、無残にも街は焼けただれ翌日一応火災も下火となって爆心地附近から父の会社あたりに行って見ようと二人で歩いた。日赤病院にも行って見たが、ずらりと並べられた被爆者は一様にヤケドで顔はハレあがって丸くなっていて人相が変ってしまい見わけがつきにくい程であった。 道路は、厚皮がヤケド(熱線による)で赤黒く焼けてザクロの様に割れて5ミリもある皮がめくれて赤身が見えてぞっとして鳥肌がたつような屍体がごろごろしていた。幾度もつまづきながらやっと川辺に出るとキラキラ陽光に光る川面には無数の水死体が満潮の汐に押されてただよいながら川上に向っていた。 別世界のような静けさと異様な光景にしばらく放心してしまった。とにかく一度家に帰って見ようとの兄の言葉に家を見ると母と姉たちが家に帰って居たので一先づ安心したが、父の事は、二人で焼け跡を廻って見たがあの状況ではわからない、死んでいるかも知れないと話し合った。半ばあきらめていた、三日目のこと。比治山下をウロウロして居た姿を近所の人に見つけられて助かって帰って来た。 荒神町の伯父(父の兄)の家に居た祖母が外に出て居て背中に(ヤケド)をうけて温品の知人の家でお世話になっていたが死んだと知らせて来たのが三日目のことでもあった。 西山勝登 |
サイズ(cm) | 38×27 |
展示の説明文 |