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トップページ原爆の絵電車通りを避難する人々。ショックで口を閉ざし手の先からはやけどの皮膚がたれさがっていた。

原爆の絵

識別コード NG223-01
絵の内容 電車通りを避難する人々。ショックで口を閉ざし手の先からはやけどの皮膚がたれさがっていた。
作者名(カナ) 熊木 久忠(クマキ ヒサタダ)
作者名(英語) Hisatada Kumaki
当時の年齢 16歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6(時刻)8:50
情景場所 千田町三丁目
情景場所旧町名 千田町三丁目
情景場所現町名 千田町三丁目
爆心地からの距離 2,000m
ブロック別 国泰寺・千田地区
作者による説明 **絵の中
八月六日午前八時五十分
状況把握のため千田町三丁目から日赤病院方向を遠望する
**裏
熊木 久忠
**別紙
状況把握のため、電車道路まで出てみると日赤病院方面から避難する人々がありショックから口を閉ざし、火傷の手の先から垂れた皮膚をぶらさげた姿は痛ましい。
道路には馬の死体が横たわる等、中心部から市内全体に及ぶ大変な災害が発生したことを知る。
8月6日午前8時50分
状況把握のため千田町3丁目から日赤病院方向を遠望する。
熊木 久忠 73才
**別紙
「8・6」被爆の回想
1945年8月6日(月)午前8時15分広島工業専門学校(千田町)有機化学教室村田教授の研究室において被爆する。研究室の机上には、所狭しと実験用ガラス器具(フラスコ・ビーカー・レトルト等)が並び壁に沿って横長の机には、塩酸・希硫酸の大瓶があり、収納庫には、多数の薬品が置かれていた。…運命の時間…すさまじい熱線と爆風が、容赦なく襲った。一瞬の閃光は青白く落雷を思わせるものであり光のあとは、真っ暗闇となり咄嗟に机の下に伏せた。爆風は全身を圧迫しガラス器具は粉砕され部屋の中を飛び交いその破片は身体に降り注ぐ。辺りを見回しても何も見えない暗闇の中で一瞬これで死ぬのかと観念する。暫くして、壊れた瓶から薬品が漏れ独特の異臭が部屋に充満してくる。床に伏せていた先輩・加藤氏は運悪く机上にあった塩酸の大瓶が壊れ全身に浴びる。半壊した室内、押しつぶされた北側の変形した窓からかすかな明かりが見えてきた。先輩は、塩酸による皮膚のヤケドを防ぐためその窓にむかって走り、校庭にある防火用貯水槽に飛び込み全身を洗い流し立ち去る。ガラスの破片を全身に浴び床に散乱するガラスの上を素足で歩いた私も思ったより傷は浅く室外に飛び出す。状況把握のため電車道路まで出てみると、日赤病院方面から避難する人々があり精神的なショックから口をきくものもなくなかには火傷の手の先から垂れた皮膚をぶらさげた姿は痛ましい。道路には馬の死体が横たわる等、広島の中心部から市内全体に及ぶ大変な災害が発生したことを知る。学校近隣の人々数十名が校門付近に避難され、ほとんど着の身着のままで言葉もない、怪我人もあり暫く様子を見ることにした。午前10時頃、宇品の陸軍船舶隊・暁部隊の救援トラックが立ち寄り2台目に乗り宇品に向かう、御幸橋を渡りきった左側に交番があり傷などの応急手当を受ける者、うずくまる者、巡査と語り合う姿を左にして皆実町に入る。電車軌道の両側にある電柱が燻る中を通り抜け船舶隊宇品港に到着し待機していた船で似島検疫所に避難する。時間と共に被災者は増加し部屋に溢れる。全身の火傷、重傷の方、軽傷の方々無意識の中で唄を唱いつつ命を落として行く方、眠るように命を落とされる方々、夜遅くまで「水、水……」とうめき声が響いた。その夜は、自宅にいる母・姉の安否を気遣いながら民家の裏山に掘られた防空壕の中で一夜を明かす。二日目の夜も北の空、広島は紅蓮の炎に染まり、時折聞こえる米機の爆音が戦の空しさを告げる。三日目朝、広島に向かう第一便に乗船し午前中に宇品港に到着する。素足で避難していたため、千田町の学校に向かう、御幸橋で兵隊さんに貰った乾パンを昼飯代わりにして、靴を履き焼けた大地を我が家へと紙屋町に向かって北上する。本通り手前で軌道上に焼け爛れた電車があり、見渡す限り焼け野原で、東西南北・一望千里の光景であった。紙屋町から西練兵場を横切り白島を経て常盤橋を渡り自宅牛田町に帰着する。被爆後三日目午後3時頃であった。玄関には、誤認による私自身の祭壇があり密葬寸前であった事は、忘れられない。その後頭髪が若干抜ける程度の軽傷であった。――16才と6ヶ月――これより新たな(平和な)人生の旅路がはじまる。
以上
熊木久忠(73才)
サイズ(cm) 27×38
展示の説明文

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