トップページ原爆の絵宇品から徒歩で御幸橋を渡り市内に入る。橋の欄干は倒れたまま、焼け野原で人影はなかった。
識別コード | NG222 |
---|---|
絵の内容 | 宇品から徒歩で御幸橋を渡り市内に入る。橋の欄干は倒れたまま、焼け野原で人影はなかった。 |
作者名(カナ) | 富澤 正雄(トミザワ マサオ) |
作者名(英語) | Masao Tomizawa |
当時の年齢 | 26歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/9/18(時刻)21:00頃 |
情景場所 | 御幸橋 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 2,270m |
ブロック別 | 国泰寺・千田地区 |
作者による説明 | **絵の中 五十七年前の九月十八日 午後九時頃 私は御幸橋を渡り壊滅した広島市内に入いった そこで見たものはまさに焦熱地獄としか云いようのない状景でした 戦争のない世界を願がいながら画く 正雄 八十四才 原子爆弾の閃光と爆烈で若い命を捨てた青少年女子に心からの冥福を祈る 御幸橋 みゆきばし **別紙 原爆の絵に応募した動機 原爆投下による終戦前後には色々の事が有りましたが書き出すときりが有りませんから箇条書きで応募の動機を申し上げます 一、私は生来東京育ちですが縁有って江田島町幸の浦出身の妻と結婚しました(昭和十九年一月) 二、昭和十九年十月妻が妊娠しましたので実家の江田島へ疎開させました(二十年五月長男出産) 三、二十年八月六日広島市内に原爆が投下されて以来江田島の実家との通信が途絶え不安の毎日でした。 四、安否を確かめたく広島行の汽車の切符を求めましたが当時は極端な制限が有って仲々切符を求める事が出来ませんでした。 五、二十年九月十六日どうにか苦労の末切符を手にして東京を立ちました 途中枕崎台風で大阪止りとなり一夜大阪駅で夜を明かしました。 六、翌日臨時列車で広島に向かいましたが再度糸崎で下車させられました(台風被害のため) 七、糸崎駅前旅館にて一泊、翌十八日転馬船で宇品へ向かいました。宇品に着いたのが午後三時頃と思います。 八、宇品に着いて早速江田島へ渡る可く舟を待ちましたが、やはり台風の関係で定期運航が乱れて途方にくれていました。 九、其の時ふと原爆で壊滅した市内を一目見て置きたいと思い立ち宇品から歩いて御幸橋を渡り市内に入りました。 十、市内の惨状はまさに焦熱地獄とは此の様なものかと思いました。そして第二に感じたことは広島市の周辺に山の夛い事でしたが今考えれば総べて焼の原ですから山が近く見えたものと思います。 十一、以上が私が広島市内の原爆の惨状を見たあらましのいきさつです。 氏 名 富澤正雄 追書 私は二十年九月十七日の枕崎台風直後の交通の乱れ、そしてすき腹を我慢しながら御幸橋を渡って被爆地広島を見た事が生涯忘れる事の出来ない体験でした。 |
サイズ(cm) | 64×53.5 |
展示の説明文 |