トップページ原爆の絵トラックで運ばれてくる多くの負傷者。皮膚も衣類もワカメのようにたれさがり、うめき声をあげていた。
識別コード | NG221 |
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絵の内容 | トラックで運ばれてくる多くの負傷者。皮膚も衣類もワカメのようにたれさがり、うめき声をあげていた。 |
作者名(カナ) | 三次 ハツエ(ミヨシ ハツエ) |
作者名(英語) | Hatsue Miyoshi |
当時の年齢 | 14歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)11:50頃 |
情景場所 | 傷痍軍人広島療養所 |
情景場所旧町名 | 賀茂郡西条町 |
情景場所現町名 | 東広島市 |
爆心地からの距離 | 26,000m |
ブロック別 | |
作者による説明 | **裏 昭和二十年八月六日午前十一時五十分前後当時の正門前の広場 原爆投下当日の状態です 現在 東広島市西条町寺家 国立療養所 広島病院看護学校 **別紙 原爆当日私が見て経験したことをお話し致します 私は当時、賀茂郡西条町国立療養所看護婦養成所の1年生でした。 検査室が実習の現場でした。午前8時頃空襲警報が解除になり私達は顕微鏡や、軍隊の大きい望遠鏡等を肩にかついで防空ゴウから地上に出たと同時にドッオードッオードッオーと大きな地鳴りと共に大きくゆれました。 近くに爆弾でも落ちたのかと思いました。それから5分~10分位して軍隊の大きい望遠鏡でみんなで覗きました処、良く晴れた青空にフワ~フワと白い物体が落下傘の様に浮いていました。みんな何だろうと口々に言い乍らその場はそれで終り忘れていました。当日8月6日午前11時30分過ぎ頃大きなトラックが次から次と被爆患者を乗せて来ました。その時の様子は今も忘れる事はありません。何事が起きたのかたヾ呆然としました。みんな全身が黒茶褐色で皮フも衣類もワカメの様に垂れ下り、あちこちでうめき声等でそれはそれは、生き地獄絵を見る様でした。私は1年生ですので上級生の指導で何百人と言ふ人を、ストレッチャ-担架等で病棟や手術室へ運びました。昼夜のウメキ声、今でも耳に残ります。その後私は毎日ウジ虫や皮フが付着しているガーゼやホウ帯を手洗いで洗いました。それから10日後夏の休暇で田舎へ帰るため広島駅のホームに降りました。ホームから見渡す限り焼野原でした。茶色に焼けこげた電車が何台も見えました。又何んとも言えない悪臭、汚れ、ほこりの中、復員軍人さん、一般人とホームは人々で溢れて汽車も満員で私は汽車の窓から押し込んでもらい、ようやく乗る事が出来ました。 二度と核戦争を起さない為にも、と思い下手な絵ですが頑張りました。これから生きて行く孫達には、良い社会で有って欲しい、又良い社会を自分で作って欲しいと心より願って居ります。 中区江波 三次ハツエ 71才 |
サイズ(cm) | 38×54 |
展示の説明文 | トラックで運ばれてくる多くの負傷者。全身に火傷を負い、皮膚も衣類もワカメの様に垂れ下がり、うめき声をあげていた。 絵/三次ハツエ氏 1945(昭和20)年8月6日午前11時50分頃 爆心地から約26km 賀茂郡西条町(現在の東広島市) |