トップページ原爆の絵橋のそばの立て札と川から引き上げられたたくさんの死体が山のようになっていた。
識別コード | NG211 |
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絵の内容 | 橋のそばの立て札と川から引き上げられたたくさんの死体が山のようになっていた。 |
作者名(カナ) | 新田 カツ(ニッタ カツ) |
作者名(英語) | Katsu Nitta |
当時の年齢 | 30歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/7 |
情景場所 | 御幸橋 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 2,270m |
ブロック別 | 国泰寺・千田地区 |
作者による説明 | **絵の中 佐伯郡能美町髙田 新田カツ(八七才) 八月六日に風呂がまを取りに行くはずでしたが丁度タバコを倉から出すと言われて行く事が出来ませんでした。タバコをはづしていたらピカーと光って大きな音がしました。 ヒトばん中広島の空が赤くもえていました。ガス会社に火が付イたのかと思いました。宇品に行って舟からじきに学校か何かわかりませんが大ぜいのやけどの病人がうめいていました。私のイトコ達は父親が家をコワシに出ていて大ヤケドをしていました。ミユキ橋から先は何んにもありませんでした。 泣くゝ行くと橋のそばでは川の中から引上げられた大きな死人の山でした。 お茶のせったいが有りましたが泣けて泣けて何んにものどに入りません。 おがんで天満町の里の家に行きました。 丁度トナリの人と出会って、家の者は己斐の方ににげたと言われましたが子供が一人死んだと言われたのでよくゝさがしておこつが見つかりました。半かち一パイ保持ち帰りました。 バケツのヘシャゲで上をふさいで、こんどは白島へ行きました。 皆さん無事ににげられたときいてホッとしました。 私が廿年余りそだった広島 胸が一パイでおべんとうも食べられませんでした。 宇品へ帰って来ましたが舟は出た後で二・三十人の人がイスの上で色々お話してねむられませんでした。 若いお母さんが赤ちゃんが泣くのでどうしたのときくと食事をしないのでおチチが出ないと言われたので私のべん当を食べていただきました。 自分は病人のにおいとき分が立っていて一日中食事はしませんでした。でも水はのんで帰って来て一ヶ月程下りがつヾいて困りました。 ほろふべき身にしあれども えらばれてめぐみに生きる 今日のうれしさ 千田学校の五かい生そつ業生です。 タテフダ 橋のそば 死人の山 |
サイズ(cm) | 17.8×25 |
展示の説明文 |