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トップページ原爆の絵トラックが負傷者を乗せて吉田方面に向かっていた。乗る気にはなれなかった。人にはウジがわいていた。

原爆の絵

識別コード NG193-06
絵の内容 トラックが負傷者を乗せて吉田方面に向かっていた。乗る気にはなれなかった。人にはウジがわいていた。
作者名(カナ) 坪中 愛子(ツボナカ アイコ)
作者名(英語) Aiko Tsubonaka
当時の年齢 13歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/7
情景場所 横川駅
情景場所旧町名 横川町三丁目
情景場所現町名 横川町三丁目
爆心地からの距離 1,750m
ブロック別 三篠・祇園地区
作者による説明 **絵の中
吉田方面へ
吉田方面に送る
くさくてのれない。
うじだらけ
**裏
6
**別紙
昭和二十年八月六日、朝八時十五分、あの爆弾(原子)。
比治山髙等女学校一年生、学校二階、音楽室、掃除中、二階から下へ爆風にて飛ばされた。一瞬の時です。何も考える事も思う事もないその時です。手のひじ足ひざガラスの破片がささり血まみれ、そのまま山に避難し手当てを受けた。何が何だか、わからないまま、戸坂坪中君、坪中君どこに居るか、ここにおりて来なさいと言う一声。行くと、母と武岡軍服姿の親戚の者、母を助けてくれた人と一緒。大変な事になっていると言った言葉、ただただ母と会えた喜び、……だきあった一時です。母と私はどうしようかねと言いながら、どうする事も出来ず、兄の友達の所を訪ねた。仁保町久保宅、被爆者で一ぱいだった。でも木小屋にむしろを敷いて下さり、その中で一夜を明かした。その時見た皆様の姿。水を(井戸水)求めて来る人。お水を飲ませて下さい。じゃぐちに口をあてる人、飲むか、飲まないかにバタバタと倒れる人、おそらくなくなられたと思います。そこに■死の人々の山、人間の皮、火傷の水ぶくれ、白い薬がぬってあるため真っ白。後考えると、お嫁に行く時(昔の人)は、白むく、死ぬ時は白の着物、それが人間の生の皮、振り袖のごとくたれさがっていた。生地獄とはこの事ですね。思えば思うほどいいようが有りません。それから夜があけるか、あけないかに母と二人で母の実家に向かって歩くことにしました。其の道中、目にしたものしっかりと焼きついた現実を絵に書く事にしました。一番印象に残ったもの。真っ黒、茶、なんとも言えない人間の体、骨のみ、人の山、五、六カ所それ以上のものであったかも知れません。鳶口を持った軍服姿の人でした。焼いていたのです。目の前で見た者でないとわかりません。骨がある、ないのもんだいではないと思います。人山にして焼いたものがだれであるわけがないのです。此の悲惨な姿思い出したくないのです。地面は熱く、足ふむ場もなく、熱くない所熱くない所をさがして、御幸橋交番の所迄たどりつきました。家の方は跡形もなく火の海でした。被爆証明書、カタパン、千円頂き、母と二人で日赤の前~相生橋迄歩きました。其の時見たのが、ラッカサンで落ち、ひも、電線くるくるまき、その周辺には、石、ガレキが山ほど投げこまれていました。現在原爆ドーム横、相生橋橋のふもと、一五、六位、色の白い外人アメリカ兵目にこびりついて居ります。この事です、時と場合と言うのは。可哀相な気も致しました。?何とも言いようが有りません。それから川の下、見れば水死体の山。重なりあう様に飛び込んでいました。人間ふくれると五、六倍もふくれるものですね。一夜にしてふくれたものですね。男性は上むき、女性は下むき、特に相生橋は沢山の人が飛び込んだ様です。道は熱く、周囲はまだまだ火の海、よく歩いたものだと思います。生きると言う事は、横川迄行くと、トラックが人をつみ、吉田方面に向かっていました。のる気にはなれず、くさいのと、ウジがわいていた姿、本当に、今思えば思い出したくないことばかりです。七〇才になりテレビを見て、一、二枚でも書いて残させて頂きたいと思い書きました。皆様犠牲者に対しこれから生きて行く若い人達どうか、平和な人間関係を作り明るい日本にして下さい。すべて、出来た事は、其の時其の時の時代の流れだと思います。誰が悪いと言う事なく、一人一人が自覚し責任を持って生きて行く事です。悲しみも、喜びも共にして、二〇〇二年ワールドカップの如く、日本が負けても、勝った国を応援するそのすなおな気持ちです。皆様の冥福をお祈り致します。
平成十四年六月吉日 
坪中愛子    
サイズ(cm) 26.8×37.8
展示の説明文

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