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トップページ原爆の絵タンスと梁の隙間で助かった自分と弟を屋根の穴から呼ぶ叔母。

原爆の絵

識別コード NG189
絵の内容 タンスと梁の隙間で助かった自分と弟を屋根の穴から呼ぶ叔母。
作者名(カナ) 三好 善昭(ミヨシ ヨシアキ)
作者名(英語) Yoshiaki Miyoshi
当時の年齢 4歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所 新市町の自宅
情景場所旧町名 新市町
情景場所現町名 榎町
爆心地からの距離 850m
ブロック別 十日市・中広地区
作者による説明 **裏
三好善昭
**別紙
爆心地より0.7kmの新市町で被爆しました。
この絵は自分が4才、弟が3才で朝早く起きたのでもう一度寝ころんでいるように叔母にいわれてタンスの前のフトンにいると一瞬目の前が「ピカッと」光り白くなりました。家がくずれて次には真暗になりました。タンスと梁に支えられたすき間に二人はいたようで九死に一生を得ました。叔母が動かないように告げてゴソゴソしていて屋根をめくり瓦をはいで外に出ました。はいだ穴から手をのばし二人に来るように呼び叫びました。その時自分の目に仏様のおハチさん(ごはんをお供えするもの)が目に入り食糧難の時「ごはんが……」といったら叔母が早く出てくるように促すので心を残して出た所を描きました。姉がいましたが、一人で外へ出たようです。
自分は叔母が背負ってくれ、弟は少し軽いので姉が背負い、西電話局が見えたので山手町の方向だと思い逃げました。広瀬橋を渡る時、途中が燃えて半分落ちていたがやっと渡って山手川を渡りかけた時、あの「黒い雨」が降り始めた。線路を渡り防空壕に入れてもらったが、皮のむけた人やけどのひどい人でいられなくなり今の清心高校の下のあたりの燃えていない家があったので入れてもらい三角おむすびのおいしかったことを覚えています。母親と祖母と己斐の山手の親類の家で合流して今の高田郡郷野村にどうやっていったのかはわかりませんが、人のお世話になることになりました。叔母は一ヶ月目の9月4日、この暑い夏に扇風機もない食べる物もない、どんなに苦しんで死んでいったかと思うと涙なくして語ることは出来ません。
姉も傷あとからうみが出たり生死をさまよったそうです。
その後、みんな髪の毛が抜けて姉は女の子なので頭布をかぶらされ人にいじめられはずかしい思いをしたそうです。
今は孫も授かり、自分の苦しみを二度と味わせたくない。
平和な孫達の世界が来ますよう、応募させて頂きました。
三好善昭 
61才
サイズ(cm) 37.8×53.7
展示の説明文

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