トップページ原爆の絵「お母さん!!」黙々と避難する被災者の列の中、奇跡的に再会、抱き合って泣き崩れた母と私
識別コード | NG186 |
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絵の内容 | 「お母さん!!」黙々と避難する被災者の列の中、奇跡的に再会、抱き合って泣き崩れた母と私 |
作者名(カナ) | 古井 ナツコ(フルイ ナツコ) |
作者名(英語) | Natsuko Furui |
当時の年齢 | 22歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)午後 |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
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作者による説明 | **絵の中 お母さん 八月六日の午後母を探してぞろぞろと市内を出て行く人々の中を探し歩いた。 其の時にふと前方を肩に血をにじませて歩いて来る下着一枚の母を見付けた。 お母さん!! 二人は抱き合って道端で泣きくずれた 廻りの方々はたゞ黙々と避難して行く。 母は家の下敷になり出られなく困ってゐる時隣の方に助け出してもらったそうだが逃げる途中にはぐれてしまったとの事。 でもこれは奇跡だ 此の時、出逢はなかったら私は一晩中ガレキと煙の中を母を探して歩き廻っただろう。 帰る家も無く・・ 私は東観音町二丁目に住んでゐた。避難先が地御前小学校だったので **裏 二人は立ち上り皆と一緒に歩き出した。たゞ歩く、生れて始めてのたいけんをする光景だ。黒い雨が降りコールタールの様な黒いものが顔にひっついて、歯だけが白い人、背中のヤケドにキューリの種を一杯つけてゐる人、お乳を出して眞赤な顔をしてゐる人、ヒフがめくれて垂れ下り布だか何か分らない。 ヤット着いた地御前小学校は薄暗くなってゐた。もう一杯の人で教室から廊下から入れない。浜のお宮え連れてゐってもらふ。こゝもすぐ一杯の人になった。身動き出来ない。水、水と求める人。水をあげたら死ぬるどと叫ぶ人、うめく人、時々大きな声を出す人、こんな夜にもお産が有った。胸ばかりドキドキする。海の方は眞黒、其の上が眞赤。広島が一晩中燃えてゐる。 夜が明けて小学校え行く。水呑場で隣りでうめいてゐた小父さん亡くなってゐらっしゃる。水をあげれば良かったなあ。 母を残して一人広島え歩いて行く。我が家を探すが分らない 一面ガレキ。男の子が黒コゲのかんづめを持って倒れてゐた。電車は黒コゲ、馬が死んでゐる。毎日通った道がない 歩けない。又地御前の小学校え帰る電車も通らない暑い夏の日。毎日つゞく。兄は出征して、兄嫁が探しに来て呉れた。兄嫁の実家え行く。身一つ、家もなく金も無く着る物も無く、食も無く、母と二人何も無い・・ あの光り、キノコ雲、原爆が憎い。あの日から私の人生に涙と苦労を、書いても書いても書きたりない。 母が亡くなる時、私の手をとって、「あの原爆さえ助かった命だから、大切に一生懸命生きて、死んではいけないよ」と言った。 毎年慰霊碑の前で、私はお母さん、お母さんと叫ぶ あの原爆の落ちた時、二十二才だった私はもう少しで七十九才になります。 |
サイズ(cm) | 25.6×36.3 |
展示の説明文 | 奇跡の再会を抱き合って喜ぶ母とわたし 1945(昭和20)年8月6日 午後 古井 ナツコ氏(原爆投下当時22歳、絵を描いた時78歳) 作者の解説 母を捜してゾロゾロと市内を出て行く人々の中を捜し歩いた。その時にふと前方を肩に血をにじませて歩いて来る下着一枚の母を見付けた。「お母さん!!」二人は抱き合って道端で泣きくずれた。母は家の下敷きになり出られなく困っている時、隣の方に助け出してもらったそうだ。これは奇跡だ。この時、出会わなかったら、一晩中がれきと煙の中を母を捜して歩き回っただろう。 |