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トップページ原爆の絵相生橋のたもとで十字架に打ち付けられていた米軍捕虜の死体。ただ両手をあわせて冥福を祈った。

原爆の絵

識別コード NG125-04
絵の内容 相生橋のたもとで十字架に打ち付けられていた米軍捕虜の死体。ただ両手をあわせて冥福を祈った。
作者名(カナ) 山田 須磨子(ヤマダ スマコ)
作者名(英語) YAMADA Sumako
当時の年齢 20歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/7
情景場所 相生橋
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離 300m
ブロック別 平和記念公園・周辺地区
作者による説明 **別紙
アメリカの兵隊さんのこと
八月、市内に弟が出掛けましたが、火の海で十日市迄がやっとだったそうです。七日の朝早く、私と弟で市内の親戚を捜しに、重箱にたくさんの梅干入りのオムスビを作って、担ぐようにして持って行きました。帰りに三滝から川沿いに、寺町、基町方面の町を色々と歩き、相生橋、横川橋を歩きました。そして基町から相生橋に向って、電停の線路まで来ました。ふっと顔を上げた瞬間に、アメリカの兵隊さんを見、何か心にズキーンと感じ、心・魂の訴え、呼び掛けが伝わってきました。私には何か、魂が自分の死を友人、両親に知らせてほしいと言っておられるように思えました。「知らせると言っても、みんな壊れて、どこに行ったらよいか」と弟も同じことを言いました。身内を捜す人がそのうち集まってこられ、みんな「酷いことをして」と言って去って行かれました。
電停のガス塔に、板木切れで十字架が造られ、二人のアメリカの兵隊さんが架けられて、右は鎖や針金で巻いてありました。右の人は、上司なのか、コメカミを銃で大きく撃たれ、両手は釘で打ちつけられ、針金で巻きつけてありました。本当に悲しそうな顔でした。左の人は右より少し小さく、若い人のようで、頭から頬にかけて血が流れ、針金で十字架に巻きつけられ、並べるようにして立たせてありました。二人とも青白く本当に悲しそうな顔でしたが、不思議に火傷もなく衣服もきちんと(国防色の服)着ておられました。傷一つないキレイなお顔で、今まで見たことのない光景でした。唯々両手を合わせて拝みました。
そのうち人が来られたので近寄ることが出来ませんでした。あの時「体温は未だ少しはあったかもしれない」と思い、今でも忘れられない。心の出来事で口には出さず、ただ「友人の兵隊さんか両親に知らせてあげたい」、いつか届きますようにと祈り続けて随分苦しみました。アメリカ人の事なので、絵にすることは出来ないと思っていましたが、「いつかあの絵をアメリカ人が見て下されば、その思いも通じるのでは」と思い、描きました。
お墓を造られた方を立派だと感心しています。カートライト教授さんが来日され、涙ながらにお墓参りを家族でされました。わたしは、何事もそこまで出来ないものですから、テレビを見て本当にありがたく思い、心も安らぎました。兵隊さんの思いが通じたのだと合掌致しました。
右の人は七日・八日・九日と相生橋の方(ふもと)にさらされ、左の人(小さい人)は三日目の九日には相生橋から福屋の方に運ばれ、傷つけられていました。
サイズ(cm) 38×27
展示の説明文

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