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トップページ原爆の絵建物疎開作業で柳橋で被爆したいとこ。顔や手の皮膚が垂れ下がりボロが下がっているようだった。

原爆の絵

識別コード NG106-02
絵の内容 建物疎開作業で柳橋で被爆したいとこ。顔や手の皮膚が垂れ下がりボロが下がっているようだった。
作者名(カナ) 草川 ヨシエ(クサカワ ヨシエ)
作者名(英語) Yoshie Kusakawa
当時の年齢
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時
情景場所 柳橋
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離 1,370m
ブロック別 銀山・幟地区
作者による説明 **絵の中
從兄は、東洋工業へつとめておりましたが建物そかいの当番にあたりやなぎ橋方面でひばくし、大洲町まで帰り、「やられた」と言って帰ったの見ると、顔や手の皮ふがたれさがりボロがさがってる様だったそうです。みんな大洲へ居られないので船越の小学校までひなんし、ねこんでしまいました。
くすりもなく、傷口へウジがわいて、くさくはあるしウジ取に大変だった様で從兄は、十日位生きてなくなりました。
ひなんした他の方も同じ様に、ウジ取に大変だったそうです。
ばくだんがおちた時日光に当った方がやけどになり、かげの方は大丈夫だった様です。あの日頃は大変なあつさでしたから、私も西城へ帰ってから、頭がいたく、はってトイレに行きました。いたくておきて、歩けなかったのをおぼへています。
**別紙
前略ごめん下さい
夏になると何年たっても原爆のおちた日を思い出し、友達もたくさん亡くなったので忘れる事は出来ません。之をかこうと思ってもうまくかけません。私は宇品の鉄道局文書課へつとめて居りました。二十才でうけたのに、くすりや養生のおかげでこんなにながく生かされた事を感謝して居ります。
局から段原中町までかへるのに、右往左往して、三時頃家へ帰りました。かべが階段におちて、中へはいれず東雲のぶどう畠へひなんさせてもらい爆風でおちたぶどう食べて、三日三晩野宿し九日に大洲から、やがへ出て、西城へ帰りました。
ぶどう畠には、やけどした人やタンスの下じきになってうごけない人やたくさんのけが人でした。広島駅がどうなってるか6日夕方出て見ましたが大正橋の所へ憲兵さんが立っていて、通してくれません。まだその時はまと場の方は火事になっていませんでした。大洲橋の方は、ゾロゝとありの行列の様に、モクゝとだまって向洋の方へひなんして行く人で一杯でした。今頃テレビで見る避難民と一緒です。けが人が居るので以上かも知れません。
絵の募集なのにえがかけなくてごめんなさい。
どなたか、かいて下さいませ。   かしこ
五月二十日
草川ヨシエ 76才
原爆の絵係様
サイズ(cm) 24.7×17.6
展示の説明文

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