トップページ原爆の絵東雲のブドウ畑で野宿する人々。宇品線の車両の中で座ったまま動かない負傷者たち。
識別コード | NG106-01 |
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絵の内容 | 東雲のブドウ畑で野宿する人々。宇品線の車両の中で座ったまま動かない負傷者たち。 |
作者名(カナ) | 草川 ヨシエ(クサカワ ヨシエ) |
作者名(英語) | Yoshie Kusakawa |
当時の年齢 | |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6~8/8 |
情景場所 | 広島駅、東雲町のブドウ畑 |
情景場所旧町名 | 松原町、東雲町 |
情景場所現町名 | 松原町、東雲二丁目 |
爆心地からの距離 | 1,900m~3,600m |
ブロック別 | 比治山・仁保地区 |
作者による説明 | **絵の中 ぶどう畠 ひなん所 おちているぶどう 広島駅 宇品線車両 宇品線の車両の中は、やけどしてひなんして来た人が、年令や男女のくべつがつかない様灰色になって、はれて大きくみえ動ふともせずじっと坐って居られました。今考へるとその人達死んで居られたのかも知れません。 私のまわりの西城の被爆者達は、6日に広島居た人は居ませんのでその日の事知ってる事をかきます。 文書課当時の友達が駅から局へ来る途中、飛行機が何かフアゝしたものをおとしたと思い見てると、ピカっと光って爆風が来たので地べたへねたとの事でした。局のろうかはガラスがこなゞでした。 **別紙 前略ごめん下さい 夏になると何年たっても原爆のおちた日を思い出し、友達もたくさん亡くなったので忘れる事は出来ません。之をかこうと思ってもうまくかけません。私は宇品の鉄道局文書課へつとめて居りました。二十才でうけたのに、くすりや養生のおかげでこんなにながく生かされた事を感謝して居ります。 局から段原中町までかへるのに、右おう左おうして、三時頃家へ帰りました。かべが階段におちて、中へはいれず東雲のぶどう畠へひなんさせてもらい爆風でおちたぶどう食べて、三日三晩野宿し九日に大洲から、やがへ出て、西城へ帰りました。 ぶどう畠には、やけどした人やタンスの下じきになってうごけない人やたくさんのけが人でした。広島駅がどうなってるか6日夕方出て見ましたが大正橋の所へ憲兵さんが立っていて、通してくれません。まだその時はまと場の方は火事になっていませんでした。大洲橋の方は、ゾロゝとありの行列の様に、モクゝとだまって向洋の方へひなんして行く人で一杯でした。今頃テレビで見る避難民と一緒です。けが人が居るので以上かも知れません。 絵の募集なのに絵がかけなくてごめんなさい。 どなたか、かいて下さいませ。 かしこ 五月二十日 草川ヨシエ 76才 原爆の絵係様 |
サイズ(cm) | 24.7×17.6 |
展示の説明文 |