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トップページ原爆の絵焼け野原になった市内のようす

原爆の絵

識別コード NG105-03
絵の内容 焼け野原になった市内のようす
作者名(カナ) 小川 勝澄(オガワ カツスミ)
作者名(英語) OGAWA Katsusumi
当時の年齢 17歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時
情景場所
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別 平和記念公園・周辺地区
作者による説明 **絵の中
昭和二十年三月より空襲が始まった岩国方面
昭和二十年五月 呉軍港、広海工廠B二十九大空襲
昭和二十年六月 焼夷弾攻撃 呉、広方面
昭和二十年七月 艦上機の波状攻撃
私が昭和十七年四月光海軍工廠に入廠する当時地方では竹槍訓練火ハタキ、バケツリレー消火訓練工廠の廰舎の屋上の機銃を見て安心したが?
大竹海兵団の屋上も機銃が見えるが大人100名に赤ちゃんの戦いの感じだった
完全に呉も広も破壊されトンネル内での生産で部品で不足
全国へ出張(当時十一航空廠に派遣)紫電戦斗機部品調達で戦争の悲惨残酷さをいやと言う程感じたが使命上働き続ける。
昭和二十年八月四日五日六日と広島市内の部品製作の工場に出張中の被爆
一瞬の物凄い閃光で一瞬阪神大震災と米国の多発テロを合せた様な惨状 広島市内全部が押しツブサレた現状だ 目に入る申し訳けないが化物の様な姿の本当に地獄の姿 私は十数回空襲の中を走り抜いて来たが広島市内の人達は始めての事 そばに防火用水槽があっても我が身の燃える衣服の消火が出来ない
阪神や多発テロの時軍も政府も消防も完全整備があっても多数の死者や負傷者 広島市の場合救助する人がいないそれだけでない死の灰の恐怖これもビキニの福龍丸の一名の死者から核の恐怖勝っても負けても核廃絶へ
燃料会館(広島市レストハウス)
藤井商事
西
広島郵便局
本川国民学校(本川小学校平和資料室)
産業奨励館(原爆ドーム)
島病院(爆心地)
日本赤十字社広島支部
広島商工会議所
サイズ(cm) 29.7×41.9
展示の説明文

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