トップページ原爆の絵建物は全部焼けてがれきの山の中に所々にバラックが建っていた。
識別コード | NG101-02 |
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絵の内容 | 建物は全部焼けてがれきの山の中に所々にバラックが建っていた。 |
作者名(カナ) | 井上 田鶴子(イノウエ タヅコ) |
作者名(英語) | Tazuko Inoue |
当時の年齢 | 16歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | |
情景場所 | 広島県産業奨励館 |
情景場所旧町名 | 猿楽町 |
情景場所現町名 | 大手町一丁目 |
爆心地からの距離 | 160m |
ブロック別 | 平和記念公園・周辺地区 |
作者による説明 | **別紙 絵についての説明 私当時16才。頭にハチマキ、カスリのモンペ、腰には弁当をもっての姿の学徒動員でした 女学校からクラス全員が軍需工場の広島精密螺旋工場、飛行機軍艦のネジを作る所で働いておりました 八月五日まで市内の土橋方面へ工場を休んで家の倒壊を手伝いに皆んなで行ったのですが原爆の落ちる六日は工場でした 朝の朝礼をすませて脱衣場で制服を作業服に着替える際に空襲警報のサイレンだと思う まもなく、耳をつんざくような音とともに地面にたたきつけられたと共に、何も見えず眞暗な感じで、何も判らんようになりました 針を頭に突きさされて目がさめて…頭部左がわを八針縫って血を止められたとのことをあとから友達に聞きました 聞くことによれば私は工場の入口あたりで倒れていたのを工場の方々がうごかないバタンコに私をのせて病院まで運んで下さったそうです 病院ではたくさんのケガ人が居るのに学徒動員と云うことで、優先的に診てもらえたそうです 有難いことだったと思いました 出血多量のために当分は床から頭は上りませんでしたが、近所、知人、友達から数人の人から市内の惨状をきいて私の頭の中で想像して絵を書いてみました 又原爆ドームの絵は私がガラスの破片のキズがなおって数日たってから市内に行ってみてびっくりしました 建物は全部焼けて一目瞭然ガレキの山又山 所所にバラックが建っておりました 井上田鶴子 |
サイズ(cm) | 34.5×45.6 |
展示の説明文 |