トップページ原爆の絵元安川からは「助けてくれ」という悲鳴が聞こえた。大きな防火用水槽では5,6人が重なって死んでいた。
識別コード | NG091-01 |
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絵の内容 | 元安川からは「助けてくれ」という悲鳴が聞こえた。大きな防火用水槽では5,6人が重なって死んでいた。 |
作者名(カナ) | 山崎 寛治(ヤマサキ カンジ) |
作者名(英語) | YAMASAKI Kanji |
当時の年齢 | 17歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/7(時刻)9:00頃 |
情景場所 | 天神町 |
情景場所旧町名 | 天神町 |
情景場所現町名 | 中島町 |
爆心地からの距離 | 350m |
ブロック別 | 平和記念公園・周辺地区 |
作者による説明 | **絵の中 防火用水 **裏 山崎寛治 74才 **別紙 昭和二十年八月七日午前九時頃 今の平和記念公園の惨状 私は爆心から約一五○○米の西観音町の広島二中で下敷になり、翌朝七日全身大ケガをしたまゝ相生橋から我が家があった今の平和公園に入ったところ、先ず耳にしたのが、元安川から、助けてくれ!という異常な悲鳴だった 大きな防火用水には前の者を抱くような姿で五、六人が重なっていた 焼けた金庫が目についた 天神町から大手町へ通じる新橋は途中から破壊 山崎寛治 |
サイズ(cm) | 31.7×40.6 |
展示の説明文 | 瓦礫の中の死体、防火水槽の死体 絵・談/山崎寛治氏 1945(昭和20)年8月7日 爆心地から約350m 天神町(現在の中島町) 「夢遊病者のように、私は這って家までやっと帰ってきたわけですけど、そこには何にもありませんでした。瓦礫ばかりで、目に見えるものは死体以外何もありません。山のようになった死体でした。今でも記憶に残っているのは、防火用水に、大抵、4,5人の人が同じような姿で同じような方向を向いて、とても哀れで、とてもまともには静視できないような姿をして入って死んでいました。そんな防火用水がズラーっとありましたね。みんな人間が入っていました。水、水、と言う声は聞こえましたけど、とても、私自身が助けるような状態でもありませんし、何も考える余地が無かったです。」 証言ビデオより抜粋 |