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トップページ原爆の絵亡くなった我が子を抱きしめている放心状態の母親。やけどのため顔がはれ目がほとんど見えない男の子。

原爆の絵

識別コード NG068
絵の内容 亡くなった我が子を抱きしめている放心状態の母親。やけどのため顔がはれ目がほとんど見えない男の子。
作者名(カナ) 柴田 フミ子(シバタ フミコ)
作者名(英語) Fumiko Shibata
当時の年齢 24歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所 平塚町
情景場所旧町名 平塚町
情景場所現町名
爆心地からの距離 1,300m
ブロック別 銀山・幟地区
作者による説明 **絵の中
火傷のため顔がはれ眼がほとんど見えない男の子
放心状態のお母さん
死んでいる赤ちゃんをしっかりだっこしている
**別紙
恥かしながらペンを取りました。(八十三才)
二十年八月六日 二才七ヶ月(男)四月二十九日生(女)
夫は軍隊
八時十五分 ピカーとヒカッタ大きな音と共に天上がなく空が見え、気がつくと体がカベの下、動かない。赤ちゃんの上に私はかぶさっていた。幸江ちゃんが泣かない。顔をたゝくとびっくりしたやうに泣いた。長男の姿が見えない。声が聞えない。名前を呼んでも答えがない。五尺タンスの一番上が飛んで、その下に頭が少し見えた。
思はず、タンスを引き上げた。(火事場のバカ力)顔中血だらけ、大声を出したら泣いた。ふと外を見ると倒れた家の向に火が。火事だ無我夢中で、川の方へはしった。後で聞く。五分後家は火の海とか?一週間比治山の「ボウクウゴウ」に近所の方々と過した。
その後、広島市のはずれの知人を尋ね、又その後加茂町(岡山県)主人の親族方に行きました。その後が私の一生の苦労がはじまりました。親子三人、発熱、下痢、カミが抜ける。食べる物がなく「オチチ」が出ない。あの時親子一所に死んでいたらと・・・幾度思ったことか・・・・・・主人と幸江、共々亡く、私は八十三才、いろゝ思い出します。
下手な字で悪からず
柴田フミ子

何時の日かドームにお参り出来たらと思っています
昭和十七年 広島市平塚町
結婚して住んでいました。
サイズ(cm) 22.5×31.6
展示の説明文 亡くなった我が子を抱きしめている放心状態の母親
絵/柴田フミ子氏
1945(昭和20)年8月6日

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