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トップページ原爆の絵福屋百貨店少し左側より真っ直ぐ天に登っていく煙を見る。

原爆の絵

識別コード NG058
絵の内容 福屋百貨店少し左側より真っ直ぐ天に登っていく煙を見る。
作者名(カナ) 赤松 光(アカマツ ヒカル)
作者名(英語) Hikaru Akamatsu
当時の年齢
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所 広島高等師範学校附属中学校
情景場所旧町名 東千田町
情景場所現町名 東千田町一丁目
爆心地からの距離 1,400m
ブロック別 国泰寺・千田地区
作者による説明 **別紙
あの日あの時、八月六日午前八時すぎ我々特別学級四年生参拾名は、文理大増本教授の有機化学二時間目を受講していた。
 例によってその前夜から空襲警報が二度発令され、一時限目の途中で警戒警報も解除されていたが、毎度の事で空襲警報はおろか爆音でも驚かなくなっていた我々としては気にもしていなかった。講義が始まって拾分もたった頃、突然カーッと明るくなった。ピカドンと俗に言うがあれはピカーッで1秒以上その明るさは続き、机の間にしゃがみ込んでもまだ光っていた様な気がする。そしてどうなったのかなと考える位の暇があり急に天地が引っ繰返る様な爆風(爆風か、その後の陰圧か)兎角、後方に飛ばされた様な気や、上空に舞上がった様な気がしたあとは、エレベーターが下降する時の様な気がしたあと、目を開けて見るとあたりはまっ暗闇で何も見えなかった。手探りで机をたしかめ、その上に立って見ても何も見えない。目に触ってみても別に痛くもないが指が見えない。そうこうするうちになんだか上の方が明るくなってくる様な気がし、暗黒から濃い焦茶色となり、それがだんだん薄くなり、雲一つ無い夏空が見え出した。なんのことはない。舞上った埃の海の底に居たわけである。音については記憶も無いし耳がおかしくなったのではなく多分無音だったのだろう。周りを見回すと梁というのか屋根を乗せる山形の木組が二つ程立っているだけで屋根無しのスッポンポン。その間に埃だらけで眼だけギョロギョロした級友、手島君と外林君が立って居た。下の方を見ると頭だけ机の間から出して居るのや、黒板の下から尻だけ出してもごもごしているのや結構皆生きているらしいので安心した。色々原爆について書いた本もありほとんどがあちこちから同時に火が出たと書いてあるが、最初に火が出たのは附中から見て、福屋百貨店よりすこし左側より真っ直ぐ天に登って行く煙しか見えなかったからどうでも良い事だが、そのあたりだと思う。
 話を元にもどすが、黒板の上には大きな山形の木組が乗っており、とても黒板が持上がらずふと思い付いて天井裏にあった皮つきの樫の丸太そいつを探してきて、黒板の下に押込みやっこらさと持上げ、その間に二人は這い出した。その棒はその後もう一人机の間から出られなくなって居た吉岡君を助け出すのにも役立った。かれこれ一時間近くわいわいやっている間に高師化学教室あたりから出た火が燃えてきて熱くなったので、死んだを級友を防空壕の中に安置し、二手に分かれひとまず退散することにした。百米も行かぬうちに、武器庫から三八歩兵銃を出せとか、火を消せとか目を吊上げて喚く配属将校につかまったが、三八歩兵銃の事は判るがこの火が消せるわけがない、と命令を無視して逃亡した。それから又、色々とあってその夜にはぼろぼろになって尾道まで帰って来た。
 あんな学校なぞやるのではなかったと、ぼやきぼやき救護班を組織して広島へ向った親爺様は、文理大正面玄関の柱に書いて置いた伝言を見たとたんに気が抜けて翌日の夜帰って来た。母や祖母に聞いたり松原の叔父に聞いたことより総合して判断するに親爺様程の真面目人間は親類中探しても見た事もなく、息子に本心なぞ見せた事なく、やれ零戦を一機献納するの、切込みの練習すると大刀を背負って出掛けるのと建前の強い性格で、小生なぞは真面目にやらない、本気でしないと毎日説教されていたのが、その日以来寝てろ、寝てろ、何か食いたい物はないかと気持ちの悪くなる程の変り様だった。身体がだるくて食欲すらなくなった小生、裏の離れに寝て暮す様になったが、次々と見舞いに来る客が中庭ごしの座敷で話しているのを聞くと、広島のあれは大変な新型爆弾で高亀先生の御長男も、同門赤松(百島)先生もなくなられ、生きているのは小生他数人だけ、親爺様も親爺様で多分もう駄目らしいとか言っていた。
 そのうちに敗戦ときまった八月拾五日、おろおろ、うろうろする家族、相談に来られる先生方を見て、うれしくもなんともない自分に気がついたのが自覚症状のはじまり、日本が勝とうが負けようが、今晩から電燈を明明とつけようが、来月まではもたないと言われた身としては関係無い事、柑皮(オレンヂの匂いのする)チンキに単シロップを入れて水で割ったものをすすり、すすり(不思議と受付けるのはこれだけ)醒めた目で眺めながら寝ていた。
 九月になって広島被爆者で生きているのは小生だけとなり、事務所を締めるからと香典やら米や酒などが運び込まれた時も別に気が悪くもならねば家族の為に良かったなあーと思ったのだから冷え込み様も相当なものだったと思う。
サイズ(cm) 14.8×9
展示の説明文

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