トップページ原爆の絵幼なじみの友人を暁部隊の救護所で見つける。背中をやけどし毛布がくっついて動けない状態だった。
識別コード | NG055-01 |
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絵の内容 | 幼なじみの友人を暁部隊の救護所で見つける。背中をやけどし毛布がくっついて動けない状態だった。 |
作者名(カナ) | 奥窪 和郎(オククボ カズオ) |
作者名(英語) | Kazuo Okukubo |
当時の年齢 | 16歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/9(時刻)夕方 |
情景場所 | 坂村、暁部隊鯛尾倉庫 |
情景場所旧町名 | 安芸郡坂村 |
情景場所現町名 | 安芸郡坂町 |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | **絵の中 原爆(ユキチャン)の思い出 奥窪和郎 1.日時 昭和20年8月9日夕方 2.場所 宇品運輸部 暁部隊鯛尾倉庫(木造二階)宇品金輪島のま向い。 3.収容所の状況 二階の中央を通路にして、両側に2列の毛布を敷き、その上に被爆者が収容されていた。(100人近くの人) ユキチャン(堀本幸啓さん) 8月6日、千田町、広島高等師範学校(広島大学)の校舎の外で、上半身裸で作業中、ピカドンの光を背中に浴び、やけどのようになる。 収容所で寝ていて、背中と毛布がくっついてしまい、動けない状態であった。治療等は殆んどされておらず、まわりの人で動かない人は死んでいた。背中と毛布の間にはうじが多く動いていた。 その後、ユキチャンは両親とその場所を離れ、坂町小屋浦救護所に移った。両親は看病をしながら交替で背中と毛布の間のうじを箸でつまんでとった。だんだん弱り8月26日の朝なくなった。 **別紙 昭和20年8月9日夕方の状況 暁部隊鯛尾倉庫2階 約100人位毛布の上に寝ていた。 階段 ユキチャン **別紙 原爆「ユキチャン」の思い出 1.日時 昭和20年8月9日夕方 2.場所 宇品陸軍運輸部、暁部隊鯛尾倉庫(木造2階)宇品金輪島のま向い 3.ユキチャン 堀本幸啓さん 小さい時からの遊び友達で私より2学年上、広島高等師範学校在学中(千田町広島大学)上半身裸で作業中、ピカドンの光を背中に浴びてやけどのようになり、倒れていたのを収容された。(本人より聞く) 4.8月9日と私 ・8月6日広島市東雲町、広島師範学校で被爆。(その時は異常なし) ・8月7日学友の治療のため付き添い。「別紙ある女性」 ・8月8日学友を家まで送り、豊田郡安浦町の家へ帰る。 夜、ユキちゃんが行方不明であると聞き、捜しに行くと決める。(当時、被爆証明書がないと、広島行きの列車に乘りにくかった。) ・8月9日家を出た。広島駅より電車道を歩いて紙屋町→高等師範学校→日赤病院→共済病院(現県病院)と捜した。 宇品暁部隊診療所で、被爆者収容名簿の中から、ユキチャンの名前と収容先(鯛尾倉庫)を見つけ、同場所でやっとあえた。(当時、私は学徒動員で宇品暁部隊へ行っており、宇品方面の様子を知っていたのが捜すのに役だった。) 5.ユキチャンとの会話の一部(特に記憶に残っている言葉) 私「ユキチャン」と声をかけた。 ユ「和ちゃん、来てくれたんか。ここがようわかったのう。ありがとう。」 私「今から一緒に帰ろう。」 ユ「帰りたいが無理、背中をピカドンでやられてやけどのようになり、上を向いて寝ていたら、背中が毛布にくっついて離れんので動かれん。よう見てくれ、背中と毛布の間にたくさんのうじがいるんだ。」 私「治療は?」 ユ「薬がない。医者がいないのか、今日で4日になるが治療はしてもらっていない。ぼくのまわりで動かない人は皆死んでいる。」 6.当時の思い出 別紙 7.その後 ・ユキチャンは両親とその場を離れ、8月26日坂町小屋浦救護所でなくなった。 ・私は原爆症らしい病気になり寢こんでしまった。 ※5月8日(原爆「ユキチャン」の思い出)の原稿をユキチャンの兄堀本美徳さん(豊田郡安浦町)の家へ行き見てもらった。その時、次の事を聞いた。 終戦当時は兵隊で中国の大連にいた。帰国後両親から「小屋浦救護所(海水浴の仮休憩所)で看病をしながら、交替で背中と毛布の間のうじを箸でつまんで取った。しかし、取っても取ってもうじはいた。薬、治療は殆んど無く、だんだん弱って8月26日の朝なくなった。多くの遺体が一緒に火葬され、その中の遺骨を持って帰った。」と聞いた。 奥窪和郎 |
サイズ(cm) | 38×26.9 |
展示の説明文 |