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トップページ原爆の絵線路わきの死体、鉄橋の下にロープを張り死体を引き上げる部隊、やけどした負傷者と介護の人

原爆の絵

識別コード NG047-01
絵の内容 線路わきの死体、鉄橋の下にロープを張り死体を引き上げる部隊、やけどした負傷者と介護の人
作者名(カナ) 國貞 勇(クニサダ  イサム)
作者名(英語) Isamu Kunisada
当時の年齢 17歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所 横川駅手前
情景場所旧町名 横川町三丁目
情景場所現町名 横川町三丁目
爆心地からの距離 1,750m
ブロック別 三篠・祇園地区
作者による説明 **絵の中
横川駅手前海側で見た農夫の遺体
線路の直ぐそばの畑で上半身ハダカで即死して居た
遺体は天プラに上げた様な色になっていた
横川
大須川
鉄橋
上り線線路
広島
兵隊
ロープ
広島駅場内信号機
下り線
砂浜
船艇
手カギ棒
外觀して男女の区別法
川を流れる際
男の遺体 尻を上にして流れる
女の遺体 腹を上にして流れている
兵隊は手カギで遺体を掛け砂浜に引き上げ油を掛け火葬
大ていの人が目がヤケドで見えない
頭顔手ヤケド
頭髪なし
警防団
国防婦人会
学徒動員生
介護人
負傷者
モンペ
介護人
一人の負傷者に二人の介護人がついていた
**裏
先づ私の当時の履歴状況から申し述べさせて頂きます
山口県防府市三田尻華浦小学校高等課(現在の中二)卒業 国鉄 広島第一機関区就職庫内手に任ぜられ(機関車(SL)勉強の爲の掃除係)翌年昇進試験合格 機関助士(SLの石炭をくべる缶たき)に 其の後 岩国機関区に転勤 次の昇進試験で機関士(SL運転手)と同期生の第一選抜で昇進しました 年令十七才の幼い純情さの残る青年でした 当時国鉄では寮(合宿)も有りましたが 住居を岩国市人絹町に定め(今流に言えば職場の隣の町内会と言う近い距離でした)
戰火の激しくなる前の国鉄は運転時間を分秒違わず走る定時運転 世界一と云う自負が有りました
処が米軍空爆が激しくなりその定時運転はメチャメチャに混れて来ました 今流に表現するなら 朝8時出勤4時退社が朝8時出勤しても自分の列車が遅れている
ヒル11時乘車 帰りは晩8時退社と言う様な状況です
だから勤務時間も乱れ ポカ休(無断欠勤)は日常茶飯事でした(現今の様に電話もなく連絡しようがない)そこで私は職場に近い関係から 非常予備機関士を命ぜられ(通常ダイヤの勤務は無くポカ休等に備える) その代り召集を受けると10~20分で出勤と言う(作業服に着替えて直ぐ 弁当を作るヒマなぞ無し)そんな体制状況の時でした広島に原爆が落とされたのです(忽論原爆とは判りませんでしたが)午前の遅い時間でした 召集を受け職場に行くと 私は誰が休んだの 何の列車に乘るのですか?と尋ねると「広島にガス爆発か何か有り 広島 己斐 横川は全滅らしい 直ぐ救援列車で各駅停車広島に行く様に 広島の駅には被害大きく入られない 横川から駅員誘導の手旗信号で誘導する とのこと それに従う様に 各駅には救護隊が待期しているから それらを乘せて行け 帰りは機関車の向きが変えられないから バック運転で帰る様に 救援列車は駅員の指示により今から編成するよう指示され 列車を編成岩国駅より広島に向った
大竹、玖波と各駅に行くと 行政より指示された
警防団、国防婦人会、学徒動員等がそれぞれ乘り込んだ 宮島口に行くともう 広島向きの家のガラスが割れている家があり 五日市 廿日市に行くと段々その被害が大きくなり 己斐では半壊 横川では全壊の家が多かった
横川駅より 駅員の手旗信号で広島駅手前100m位鉄橋手前迄行って停車(被爆地に一番近い処)救援隊を降し機関車を放し 広島駅構内で下り線に入り横川駅迄(バック運転で)戻り列車の最後尾につけ バック運転で 岩国駅迄 又各駅停車で戻った
その間 大須川鉄橋下には陸軍船艇部隊がロープを張り 流れて来る遺体を長い柄の手カギで浜に引き上げていたし
列車には負傷者一人につき二人の介護人をつけ主に頭、顔 両手をヤケドして目の見えなくなった患者が多かった それを各駅に少し宛降し病院に入れた様だ
忽論その日の私が救援列車第一号であったが翌日より毎日その様な救援列車を8月14日岩国駅空爆迄続けたから広島駅近辺を見学したし 負傷者は何千人と見て来ました
絵が下タだから 見た様子を裏に書きました
サイズ(cm) 20.8×28.9
展示の説明文

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