トップページ原爆の絵倒壊した校舎の下敷きになった子どもを助けることができず、ただ手を握り、声をかけるだけだった。
識別コード | NG034-02 |
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絵の内容 | 倒壊した校舎の下敷きになった子どもを助けることができず、ただ手を握り、声をかけるだけだった。 |
作者名(カナ) | 加藤 義典(カトウ ヨシノリ) |
作者名(英語) | KATO Yoshinori |
当時の年齢 | 17歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)10:30頃 |
情景場所 | 段原国民学校 |
情景場所旧町名 | 金屋町 |
情景場所現町名 | 的場町二丁目 |
爆心地からの距離 | 1,800m |
ブロック別 | 比治山・仁保地区 |
作者による説明 | **絵の中 助けてあげられなくてごめんなさい **裏 被爆時の住所 広島市京橋町 (爆心地から1.2km) 当時広島工専電気科1年生 加藤義典 平成14年4月21日 画 **別紙 八月六日の十時半頃、広島は全市が猛火で、火災と渦巻く黒煙に包まれていました。 このころ段原小学校もペシャンコに押し潰され、校舎の下敷きになった子供を救助できないまま火炎に包まれていました。『助けてください!』と地の底から最後の力をふりしぼって叫んでいる声を聴きながら、火の粉を避けて逃げるしかすべはなかったのです。 運動場に設置された防火用水槽に飛び込んで、全身を水浸しにして何度も火の下をくぐり生徒さんの側まで近付いても、大きな柱に挟まれて引き出せ無いのです。 はじめは、校舎の西側に上がっていた火の手も、驚く程の早さでつぎつぎと燃え移り、道具も何もなく手のほどこしようもありません。『元気をだせよ!』とか『日本男子なら泣くな!』とか大声を出して、火の粉が落ちてくる柱の間をはいまわるばかりでした。 悪戦苦闘の結果、どうにか一人だけ助けだし背負って逃げ出した時には、もう入っては行けないほどの火になっていました。もう一人、どうしても助けてあげたい女の子がいました。頬ずりをしてあげられる程、体は殆ど外に出ているのに、片腕が柱と柱に押しつぶされて引き出せなかったのです。『もうすぐ楽になるからね』といって手をあわせました八月六日がくると、私の脳裏に焼き付いたこの光景がよみがえり、助けてあげられなかった子供たちへのすまない気持ちと、無念さで胸のつまる思いがいたします。 平成十四年四月二十日 加藤義典 |
サイズ(cm) | 24×33 |
展示の説明文 | 助けを求める声を聞きながら、逃げるしかすべはなかった 爆心地から1,800m 段原国民学校 金屋町(現在の的場町二丁目) 1945年(昭和20年)8月6日午前10時30分ごろ 加藤義典氏(当時17歳) 【作者のことばから】 小学校もペシャンコに押し潰され、校舎の下敷きになった子どもを救助できないまま火炎に包まれました。「助けて下さい!」と地の底から最後の力をふりしぼって叫んでいる声を聴きながら、火の粉を避けて逃げるしかすべはなかったのです。 -/『図録 原爆の絵 ヒロシマを伝える』 〔作者のことばから〕要約 助けてあげられなくてごめんなさい 下敷きになった子供を救助できないまま、校舎は火炎に包まれました。ほおずりをしてあげられるほど、体はほとんど外に出ているのに、片腕が柱と柱に押しつぶされて引き出せなかったのです。「もうすぐ楽になるからね」といって手をあわせました。 8月6日 午前10時30分頃 1,800m/段原国民学校 加藤 義典 -/助けてあげられなくてごめんなさい 1945年(昭和20年)8月6日 爆心地から1,800m 金屋町 段原国民学校 加藤義典 作(被爆当時17歳/絵を描いた年齢73歳) 校舎の下敷きになった子どもの手を握り、「元気をだせよ」とか 「日本男児なら泣くな」とか、むなしい声をかけるだけでした。 火の手は驚くほどの早さで つぎつぎと燃え移り、 「助けてください!」と地の底から最後の力をふりしぼって叫んでいる声を聞きながら、 火の粉を避けて逃げるしかすべはなかったのです。 〔作者の言葉より〕 |