トップページ原爆の絵頭がかゆくて一睡もできないと訴える男性。腫れた部分からウジが何十、何百と落ちてきた。
識別コード | NG032 |
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絵の内容 | 頭がかゆくて一睡もできないと訴える男性。腫れた部分からウジが何十、何百と落ちてきた。 |
作者名(カナ) | 正木 鏡子(マサキ キョウコ) |
作者名(英語) | Kyoko Masaki |
当時の年齢 | 21歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/8頃 |
情景場所 | 小方国民学校 |
情景場所旧町名 | 佐伯郡小方村 |
情景場所現町名 | 大竹市 |
爆心地からの距離 | 30,000m |
ブロック別 | |
作者による説明 | **裏 正木鏡子 **別紙 拝啓 あの原爆の悲惨な有様は原爆を受けた人、又、被災者の介抱にあたった者でなくては分らないと思います 私は、私の弟が己斐駅前で被爆しその夜、大火傷と大怪我をして命からがら我が家に辿りつきました(当時佐伯郡小方村) 八月六日の夜母は国防婦人会で原爆の被爆者の収容先に行く積りでしたが、母は弟の介抱する為私に代ってくれる様頼まれました。私は当時21才の独身で工場で働いていましたが、止むを得ず会社を休み母の代理をする事になりました。八月八日頃だったと思いますが、毎日の炎天下を、小方湾に広島から船で運んだ人を担架やリヤカーで何人も何人も当時、小方国民学校の講堂に運び込まれて来ました。学校から200m位離れていた我が家からでも被爆者の大変な匂いでした。その間も空襲警報が何度も発令されました。私は防空頭巾をかむり小学校の講堂に入りました。 何と何と、その時の光景は筆舌に尽されない程の有様でした。この絵は私の脳裏に焼きついたまヽの忘れられない記憶を書いて見ました。 患者さんは並べた机の上やゴザの上にゴロゴロと転がされたように寝かされ今にも息絶えそうな人ばかりで50人位の人数のように見えました。ぐったりした患者さんは、呻き声を出しそれでもお医者さんは只一人、薬は赤チンキの他は見当りません。 患者さんには、流れる血、固まった血、火傷を体にも腕にも負って腕を下げる事も出来ず火傷が、くっついて腕が離れなくなるので幽霊のような状態でした。 この絵は、或る中年の男性が、頭がかゆくて三日三晩一睡も出来ないと訴えておられました。お医者様が、頭の一部が、少し膨れた場所をピンセットで引張られると何と、バラバラと蛆が落ち何十匹か何百匹か分りませんが、もう一ヶ所もでした。脱脂綿で取り除きますと、3㎝位の穴が開き、血が滲み赤い肉の穴で、ちょうど暑い夏ですから傷が化膿し蛆虫が湧いて頭の肉を喰っていたのでした。それを取除くとすぐにグーグー眠られました。もう一方左の絵は子供を二人連れ手当を受けられましたが赤ちゃんが、母親の腹をかきむしりお乳が欲しいのでしょうお腹をすかせて泣き叫ぶので私は、赤ちゃんを抱いて近くの乳を下さる方の所に行きお乳を飲ませて貰いました。その親切なおばさまは、子供の火傷の膿が、伝染ったので、胸が火傷した様にくずれていました(幾人もの赤ん坊)毎日毎日被災の患者さんが小学校に運ばれ又、死んで行かれるのを目の当りに見て私は卆倒しそうでした。何日位介抱が出来たかはっきり覚えておりませんが、空襲が毎日続きました。夜はその小学校も燈火管制で真暗です。あの知らない被災者の方は、どうなられたかと今も心残りがします。 下手な絵と文ですが、タドタドしいと思われるでしょうが、私の精一杯の忘れる事の出来ない一生の思い出でございます。 敬具 平成十四年 四月二十四日 正木鏡子 77才 |
サイズ(cm) | 31.5×40.7 |
展示の説明文 | 『図録 原爆の絵 ヒロシマを伝える』 〔作者のことばから〕要約 頭の膨れたところからバラバラとウジが落ちてきた 中年の男性が、頭がかゆくて三日三晩一睡もできないと訴えておられました。お医者様が、頭の一部が少し膨れた場所をピンセットで引っ張られると、なんとウジがバラバラと何十匹か何百匹か分かりませんが落ちてきました。もう1カ所もでした。 8月8日頃 30㎞/小方国民学校 正木 鏡子 |