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トップページ原爆の絵燃える市街を二葉山から見る。辺りは薄暗く風が強く、空にはドラム缶のようなものが舞っていた。

原爆の絵

識別コード NG029-04
絵の内容 燃える市街を二葉山から見る。辺りは薄暗く風が強く、空にはドラム缶のようなものが舞っていた。
作者名(カナ) 田中 富安(タナカ トミヤス)
作者名(英語) Tomiyasu Tanaka
当時の年齢 22歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所 二葉山の通信所
情景場所旧町名 二葉の里
情景場所現町名 二葉の里
爆心地からの距離
ブロック別 牛田・広島駅周辺地区
作者による説明 **裏
第四景 燃える市街、空にはドラム缶?
まるで地獄のようで、この世の終わりかと思った
T.tomiyasu
**別紙
原爆の絵応募に当たって
田中富安 七九才
一、当時の年令および職業 二十二才、元、逓信省、岡山電信局、有線通信手
二、広島市内に居た理由. 軍通信応援のため、(前任者と交代)七月下旬から第二総軍司令部(大須賀町)通信隊へ出張中でした。
三、滞在期間 被爆後も八月二十五~八日ごろまで二葉山の壕(横穴)の中で勤務し、その後東洋工業へ移り九月中旬ごろ岡山へ帰る。
四、被爆直前の概要 出勤前でバラック建て兵舎の二階で、親友Nは窓わくに座り背を外にして本を見ていた。私がその足元へ頭をつけて腹バイで横になり本を見ていました。
部屋には同僚と五名でした。
一方夜勤者(二~三名)は通信所(司令部の一階)でした。
被爆の状況
 突然、目の前がまっ赤になり、窓から火の玉が飛び込んで来ました。全身が打ちのめされ、すごい衝撃を受けて一瞬を気を失いましたが瓦の落ちる音で、目がさめ気付いたときは、棟の間にはさまっていました。私は屋根のすき間から首を出して、あたりを眺めました。いつもは高い塀で囲まれていて、街の様子は分からないのですが塀はなくなり市街が一望出来ました。オヤッ街に家がなくなっている?不思議だなーと思い四方に目を向けました。福屋デパートが傾むいている。「わらぐろ」のように見えるのが民家だ。私は夢を見ている気分でした。人っ子一人居ないし物音もしない、まるで眞夜中の静けさ、何事が起きたかわからず、しばしぼーとしていた処他の兵舎から血だらけの首がのぞいた。アッと吾に返り、部屋の同僚をさがし通信所へもかけつけてみました。司令部の建物はぺちゃんこでしたが全くすき間がなく、数人の兵隊さんも来ましたが手のつけようがない。ノックには応答が聞こえたがどうにもならず兵舎にもどり、全員をあつめましたが、Kがいない。Nは背中のやけどで重傷、若い二人は軽傷で歩くことが出来た。大きな声で「K」を捜し出し外へ出るように言ったら、ウンと言って立とうとして、ハリに足をハサマリ立てない。
(私も小指の爪が割れていたが痛いとは思わなかった)私はそこらの柱を抜き取り、テコにして必死に助けようとしたが、一人の力ではどうにもならず、兵隊を捜してくるからと言って見たが煙りの臭いがする早く助けてくれと涙乍らに云う。外では三人が早く連れて逃げてくれという。このままでは全員危ないと思い門の方へNを背にして向かった。門の近くで兵隊さんに出会う(元大工だと云って部屋に来ていた人だった)私が「K」を助けてくれと頼んだ心良く引受けてくれ、早く逃げなさいと云ってくれた。かねて非常用の通信所を二葉山の横穴につくっていることを知らされていた。北へ一K~一.五Kぐらい。私達は門の外へ出て驚く。ボロ着の人の多い事、コンナに乞食が多かったかなと不思議に思ったがすぐ気付いた。衣服のちぎれ皮ふの赤むけ、ホコリがついて、ぶらりぶらりしている。
私達はやっと二葉山の通信所にたどり着いた。松の大木に街から飛来したトタンが突きささってぶらぶらしている。スゴイ爆弾があるものだと驚きを新たにする。それから間もなく火の手が廻って来た。風も強くなった。あたりがうす暗くなりすごい火勢になって来た。空にはドラム缶のような物が舞っているまるで地獄、この世の終わりかと思った。この時黒い雨が降った。「K」はおそらく助かってないだろう。通信所の連中もだめだろうと空を見上げた。
翌朝火災はほとんどおさまった。重傷のNが水をねだる。
呑ませたら終わりだ。ことわり切れないので、水さがしに出かけることにする。時間をついやして帰り、海田市の辺まで行ったがのめる水がなかったと言ったらあきらめてくれた。私は無線機が雑音で使えないので宇品まで有線はりの手伝いに出る。留守中にNは軍関係の病院へ搬送されていた。仕事は私と若い二人の三人で行った。
私はひまを見て水浴に行った。場所は二葉山の西の端十五分位行った処に元安川の上流かと思われる河があった。すぐ上に鉄橋がかかっていた。砂辺では多くの人が亡くなっていた。この当時私の神経はマヒしていた。倒れている人をまたいだり、腕時計にさわってみたりした。
コワイともキタナイとも思わなかった。私も紙一重でこうなっていたんだと思っていた。ある日水浴中に「お父さんが来ているぞ」と連れが呼びに来てくれた。父が私をさがして市内を歩きまわりやっと捜し当てたのだ。その父は七年後体がダルイダルイと言い乍ら亡くなった。原爆症だったのではと最近気がついた。
私が復員して数年後のことです。
「K」も「N」も助かっていたのです。私はびっくりしました。Nはあの時海田市の方まで水をさがしに行ってくれて有難うと礼を言った。
私はだまってうなづいた。嘘だったとはとても言えなかった。それからも仕事の関係で(Nは尾道出身)私は福山で大変お世話になったものです。
また、Kの方は大工の兵隊さんが、命の恩人だと言っていました。軍の病院へ連れてゆかれ無事に故郷(連島)へ帰ったと言っていました。私には被爆手帳申請のための証人の依頼に来たが長い間私が助けず逃げたと、うらんでいた様子でしたが、今では分かってくれています。
 最後にずい分省略して書いたつもりですが長くなってすみません。まだ書き足りない所もありますが、時系列的に書いたわけは、被爆直後市街が火の海になったような報道がなされていたのが、そうでない証明をしたかった為です。又、絵も残酷な場面は省略させてもらいました。

平成十四年 四月
田中富安

広島NHK原爆の絵係 様
サイズ(cm) 38×26.6
展示の説明文

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