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トップページ原爆の絵欄干の落ちた相生橋には、焼けただれた自転車や電線、骨組だけになった路面電車が残されていた。

原爆の絵

識別コード NG027
絵の内容 欄干の落ちた相生橋には、焼けただれた自転車や電線、骨組だけになった路面電車が残されていた。
作者名(カナ) 島川 省三(シマカワ ショウゾウ)
作者名(英語) Shozo Shimakawa
当時の年齢 16歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/9/4
情景場所 相生橋
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離 300m
ブロック別 平和記念公園・周辺地区
作者による説明 **別紙
「あの相生橋の追憶」
この絵の相生橋は小生の思ひ出の橋なのです。
今は亡き父(被爆者)との不思議な出来事のあった出合橋なのです。昭和20年9月4日の日中戦後処理作業に從事していました陸軍を終戦により召集解除され、自宅(東雲町)に帰る途中でした。父は五日市の某小学にあった陸軍の臨時司令部に面会に行くために・・・・・お互に同日同時刻に相生橋に来たのでした。父と子の因縁による不思議を今でも思い出されます。
七つの川に架かる橋の大半が被害を受けており通行止となっていた。観音橋の右岸側は脱(落)橋していた。世界的に有名なT型タイプの相生橋も爆心地のため、被害を受けており、欄干は北側は川へ落ち、ほかはすべて倒されていた。
特に思わぬ被害は、歩道部分のコンクリート版が浮きあがっていたことでした。爆風が川面に当りさらに逆に吹きあげたものと推察されます。
橋上には持主のいない焼けただれた自転車や電線等や骨組だけの市内電車が居すわっていたのを思ひ出されます。あの橋の傷だらけの姿が忘れられない、いたみとして心の底に残っています。
なほ参考までに記すれば当時18才でした。陸軍経理学校を卆業、中国軍管区経理部に配属勤務の爲、広島市へ帰広、昭和20年8月12日広島駅前に立って目に入ったのは、見なれた昔の面影はなく、建物はすべて焼けて一軒もなく、ただ瓦礫の山ばかり、水道の水が出し放しのまゝ。駅前に三角テント張りで駐在している憲兵さんに陸軍経理部の場所を聞き、今の広島城跡に到着。同期生8名他と戦後処理のため、大本営跡へ丸竹の骨組に「むしろ」の組合せの仮兵舎を建て、ここを基地に8月末頃まで米軍のP-38双胴型の偵察機が低空飛行で、わがまま顔で飛び廻り市内の被害状況の調査を行っているものと思われる。その中をくやしい思いでながめながら人影のすくない市内各地や郊外へトラックで、被爆者救災のために東奔西走しました。
郊外に分散されていた軍の物資を回收し、各救護所へ配布の作業を行いました。
小生達の行った作業は世間には伝わっていないことではと思ひますので、ここに手記として残しておきたいと思い筆を走らせた次第です。
サイズ(cm) 18.2×25.7
展示の説明文

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