トップページ原爆の絵御幸橋に立ち、京橋川上流を見る。川の両岸から風にあおられて炎が上がり、黒煙が空高く上っていった。
識別コード | NG018 |
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絵の内容 | 御幸橋に立ち、京橋川上流を見る。川の両岸から風にあおられて炎が上がり、黒煙が空高く上っていった。 |
作者名(カナ) | 松島 圭次郎(マツシマ ケイジロウ) |
作者名(英語) | MATSUSHIMA Keijiro |
当時の年齢 | 16歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6 |
情景場所 | 御幸橋 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 2,270m |
ブロック別 | 国泰寺・千田地区 |
作者による説明 | **別紙 原爆に関する図絵 「御幸橋にて」 平成14・4・15 松島 圭次郎 無職 (元、広島市立楠那中学校長) 話せばいくらでもあるが、簡単に絵にまつわる思いを述べて説明しておく。 8月6日には、千田町の元、広島工業専門学校(後の広島大学工学部、大学移転後の今は健康センター等の施設になっている)機械科の教室内にて被爆。我々は工場動員される前に、たまたま8月1日より授業を受けることになり登校、8:00より授業が開始されていた。木造二階建て校舎の二階西側教室、私の座席は南側窓際、最前列であった。窓外には高所を飛ぶB-29を2機望見できたが、「警報はどうであったかな?」くらいに安易な気持ちであった。 次の瞬間赤ともオレンジ色とも混ぜ合わさったような夕焼けの如き世界に変わり、熱線と衝撃波を身体中に受ける。「爆撃!」と感じて一瞬、目と耳を覆いながら机の下に飛び込んだと同時に百雷の落ちるようなドカンという大轟音を聞く。そして真っ暗な闇の世界に変わってしまい、何も見えない。このあたりは総ての被爆者と同様である。何のことやら全く分からず、頭にさわるとヌラヌラする。出血であった。 「俺は死ぬ」と思って本当に怖くなり、いろんな事を走馬灯のように思い、母のことを思った。念仏もした。そこらじゅうを這いずりまわって、身体中を調べて見ると頭のテッペンからズボンや足の方も血だらけであった。窓ガラスの破片による切り傷だった訳だがその時は何も分からず、専ら怖かった。そのうち徐々に明るくなって、ようやく校舎外に這いだす事が出来た。 外に出てみて、沢山の負傷者がいるので驚いた。皆が自分の横に直撃弾が落ちたと思っていたのだから、そんなに一時に沢山の被害者が出る理由が分からなかったのである。友人の一人を日赤病院に連れて行く途中、中心部の方から逃れてくるひどい火傷の人達の行列にも、例外なく完全に破壊された建物、人家にも驚くばかりであった。 病院もひどい状況であったので、結局我々はもう一度学校に戻ったが友人は幸運にも宇品から来てくれた暁部隊の救援トラックに収容してもらったのだった。この後、私は御幸橋を渡って皆実町、段原経由で西蟹屋町の寄宿舎、更に海田まで歩いて夕方に山陽線の救援列車に乗ったのであった。御幸橋のたもとの警察官派出所には水道が一本あって、多くの負傷者が群がったように思う。私もあそこで水を呑んだように記憶する。中国新聞の松重記者がお撮りになった有名な写真があるが、どうも私が通過したと同時刻、同場所であったように思えてならない。特に、建物疎開の後片付けに動員されていた中一クラスの全市の子供達がひどい目にあっていた。今思い起こしても地獄であったと思い、あの子たちの冥福を祈らずにはいられない。 この粗雑な絵は私が御幸橋を渡る時、足を止めて京橋川の上流方向を眺めた様子である。中央の頭にタオルで包帯をした男が自分であって、行列になった被爆者の方々はもっと沢山いらっしゃったが、、、、ご想像頂きたい。私は段原で生まれ、大きくなり、比治山で遊びまわり、比治山小学校、広島二中、工専と進んだ人間である。川の両岸が土手の草焼きのように風にあおられてバリバリと紅蓮の炎を上げ、黒煙が天空高く昇って行く地獄の様子を見て、16才の大した考えもない若者だった私でも流石に「あぁ、わしらの広島が燃えてゆくのう、、、、」という、感傷を覚えたのを記憶する。 橋の欄干石にご注意頂きたい。北側の石はきれいに一列に橋の上に並んで倒れていたし、南側の石は川のなかに落ちていた。「ハハーン、町の真ん中に一つ大きいのが落ちたんだな」位は私にも分かったし、雑誌「少年倶楽部」か、「子供の科学」かで読んだ事のあった「原子爆弾というやつかな?アメリカはあれを作ったんじゃろか」と思った。別に私がスマートな少年だったと言いたいのじゃないし、何百分の一秒の瞬間に何万発もの爆弾を落とせるはずのものでもないから、「これはテッキリ常識を超える、新型の大型爆弾しか考えられぬ」くらいは誰でも思いつくだろう。でもまぁ、そんな事が分かったとて何の意味もない。 幸いにも屋内にいて、爆心から2キロという距離もあり、火傷を負う事もなく、切り傷も大した事は無かったし、直後は一週間くらい熱が下がらず、下痢もあったりでゴロゴロしたが、何とか今日まで生きさせてもらっている。白血球の数はいつも少ないし二三の持病も抱えているが、この年になれば致し方あるまいと思っている。 「こんな酷い兵器を二度と使うような事があってはならない」と思うので、教員をしている間もそれに向けた出来るだけの努力はした。昭和41年から一年間、シカゴのある学校区に招かれて広島市から派遣していただき、彼の地の小、中、高校、大学等で被爆実態とか平和の問題とか訴えるような事もした。退職後もそんな事で二度ばかり渡米して各地で話して来た事もある。やはり「無知はいけない」のであって、世界中の人達に原爆の実相を話してあげて、理解してもらうのが、これからも私の出来る事だろうと思っている。 |
サイズ(cm) | 19.5×28.6 |
展示の説明文 |