識別コード | NG017-01 |
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絵の内容 | 火に囲まれて逃げ惑う人々 |
作者名(カナ) | 辰岡 綾子(タツオカ アヤコ) |
作者名(英語) | Ayako Tatsuoka |
当時の年齢 | |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6 |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | **裏 ① S60.8月 **別紙 前略 御許し下さいませ. あの忌まわしい原爆が落とされた時、私は二十二才でした。住所は爆心地から一kの所の「田中町」と云ふところでした。家のすぐ前に山陽中学の正門があり静かな町でした。 あの日朝食の片づけを義母と二人で済ませ義母は台所へ義父は外出し私は自分の部屋に入った時被爆しました。幸い家の中に居たので火傷はまぬがれましたがタンスの下敷になりガラスで手足を切り壁土地などの爆風で目(両眼)が見えなくなりました。やっとの思いで這い出して水道から吹き出していた水で目を洗い少し見える様になりました。その時婚家の両親と実家の妹を失いました。外へ出て見たものはヨレゝのボロ布の様な人達でした。 私も手足から血が流れていましたがショックがひどく泣き乍ら火の手が上っていない所を探し乍ら蟹屋町の実家迄裸足で帰りつきました。どの道を通って帰ったかは今も解りません。同封の絵はその時私の心に焼きついたものを書いたのです。 まるで地獄絵の様な中を歩いて帰った様な気がします。 ①の絵は火に囲まれて逃げ惑う人達です。 ②の絵は眞暗闇の中で焼かれて助けを求めている人達です。 私はこの絵を書く迄は原爆そのものを心から憎悪し拒ひして来ました。余りに生々しいおもいでだったからです。 当時二十二才だった私は七年間と云ふ気の遠くなる様な入院生活をし生死の境をさまようたのも二度三度と有りました。 この絵を書き残す気になったのは本当に突然で四〇回の原爆忌をテレビ見て居た時です。 くしくもその翌年平成元年に乳癌が見つかり手術、左乳房を失いました。 又、平成十三年には心臓を悪化させペースメーカの力を借りている次第です。 さて、心の中の絵を書くことに依って原爆の呪縛から解放されたかったのです。 私は現在七十九才と三ヶ月になります。弱い身体を八〇才近く迄生きた証しとして私の心の絵を皆様に見て頂きたく御送り致しました。 辰岡 綾子 |
サイズ(cm) | 24.1×27.2 |
展示の説明文 |