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トップページ原爆の絵市内整理中、大きな柱の下でうめいていた人、柱を切って外に出すがやがて亡くなった

原爆の絵

識別コード GE45-24
絵の内容 市内整理中、大きな柱の下でうめいていた人、柱を切って外に出すがやがて亡くなった
作者名(カナ) 鍛治屋 末美(カジヤ スエミ)
作者名(英語) KAJIYA Suemi
当時の年齢 37歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時
情景場所 中広町
情景場所旧町名 中広町
情景場所現町名 中広町
爆心地からの距離 1,500m
ブロック別 十日市・中広地区
作者による説明 **絵の中
(この人は生きていました。)

道路

草岸



一、上の図面はまことに見にくい絵ですが家の倒れた状況で場所は中広町でございます。
其の中に大きく書いてある人はまだ生きていました。天満町から整理して上図の所まで道路を綺麗にして来ましたら、かすかに人のうめきごえが聞こえるのでふと気がついて見たら大きな木に手と足を押えつけられて居り生きているので早く出してやろうと我々整理人は人を出す事に心があせり其の人の胴中を抱かえて無理に引っ張り出そうとしましたら大きなこえを出して苦しそうなから、これは時間がかかっても、足と手の上に倒れている木を切って出してやろうと田舎から持って出たのこぎりで引き切りかけましたが何分大きな梁や、柱の下になって居るのでなかなか早く切る事が出来ず時間がかかりました。
そうしてようやく出して道路まで出したらうめきごえがしなくなり自然と呼吸がしなくなりあの世の人となりました。
何処の何人か聞くことも出来ませんでした。
此のようにして昭和二十年八月六日の朝八時十五分に広い広島も一瞬にして、見る影もない、悲惨な残酷な有り様と化しました。あの当時は日本は、もう駄目だみんな死んで行くのだ。原爆の落ちた広島は七十年先までも、草木は一本も生えないと噂され、けれどもあれから三十年の今日では各国からの御援助で経済的にも、文化に於いても、高度の成長を遂げ、世界の指折りに数えられる、何不自由のない豊かな国となりました。
けれども現今では喉元過ぎれば熱さを忘れるとか、熱し易い、覚め易い日本人なるが故に、昔の苦しみは忘れてしまい、金さえ出せば何んでも求められる時代となり私のような貧乏人でも贅沢三昧で、何事も自由だと、自由の履き違えをして、自分本位に考えて、自分さえよければ良いと考え他人様のこと等は夢にも感じない。誠に薄情な人間が日と共に増してくることは遺憾極まることであります。目の中に入れても痛くないという可愛い筈の我が子でさえ無惨に殺す、子供から言えば、広い世界に親だけを頼りにしている。そのおかあ-さんに殺される。ほんとうに可哀想なことであります。これが、真実の母であろうか。萬物の霊長と言えるであろうか。現今では、世界中が、まことに複雑な世相となりつつあり、世界の大国を初めとして各国共に核という恐しい物を持っている。此の先どんな事が起こるかわからない。何年も、何十年も、今のような世の中が続くかどうかわからない。昔の苦しみを肝に命じ今日、一日、一日を感謝して、人のため、世のために勤めつくすのが真の人間であり、人としての正しい道であります。どうか全国の皆様自分という人間を日に三度顧るじつくりと見つめようではありませんか。 完

各位
鍛冶屋末美
サイズ(cm) 53×59.5
展示の説明文

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