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トップページ原爆の絵縮景園付近で被爆、常葉橋北の川原で午後四時まで待ち鶴見橋の方へ逃げる

原爆の絵

識別コード GE45-21
絵の内容 縮景園付近で被爆、常葉橋北の川原で午後四時まで待ち鶴見橋の方へ逃げる
作者名(カナ) 香川 勇(カガワ イサム)
作者名(英語) Isamu Kagawa
当時の年齢 43歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時 1945/8/6~8/7(時刻)夜
情景場所 陸軍船舶司令部(暁部隊)
情景場所旧町名 宇品町
情景場所現町名 宇品海岸三丁目
爆心地からの距離 4,790m
ブロック別 皆実・宇品地区
作者による説明 **絵の中


死亡
死亡
自分
虫ノイキ
死亡
ネテイル
昭和二拾年八月六日の私の一日の行動
親子六人 元家具疎開業 香川 勇 七十三才
六日朝の七時頃(當時は市内 田中町)大八車を引いて上流川旧御泉邸附近の家の家具其他を積んで家の中から出様としたら太陽の光より強力な光と共にサーッと爆風と一緒に家がつぶれて家の下敷になりました。
ココだけ爆だんが落ちたかと思って助をよびましたがだれも来ないので座板をやぶり外に出ましたら市内全部つぶれ、方方に火の煙が上って居ました。
中で白島電車道をトキワ橋の上(かみ)の河原に水きわへしゃがんで居た其間モノスゴイジゴクエマキが七 八時間つづき四時頃セ中と足に重傷にもいとわづ我家にかへってみたら焼けおちて居ました 家族のあんぴもわかりません。
ツルミ橋へニゲて宇品の船舶(せんぱく)司令部に収ようされました。

當時は重傷者から先にキヅの手当をする事に成ていて私の手当は三日目でした。
夕方ですから大きな梅ボシの入った大きなニギリメシを二ツヅツいただきました
私は皆食べました 食なかった人は次々と死んで行かれました 其夜は明がなくマックラでした 此の絵は六日夜から七日夜明の有様です クラヤミの中から水をくれとわめく声でものさびしさをかんじました 人が死んで行かれても私も行くのかと思へば涙も出ませんでした 営舎は広く二百人位入っていたと思います 
毎日二三十人死んで行かれました。
**裏
原爆三十週年思出
死んで行かれた人々の供養し奉る
昭和五十年六月二十七日
香川勇
サイズ(cm) 38.5×78
展示の説明文

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