トップページ原爆の絵工場までたどりついて死んだ人、負傷者の収容所になった工場の見とり図
識別コード | GE40-48 |
---|---|
絵の内容 | 工場までたどりついて死んだ人、負傷者の収容所になった工場の見とり図 |
作者名(カナ) | 内山 新助(ウチヤマ シンスケ) |
作者名(英語) | Shinsuke Uchiyama |
当時の年齢 | 46歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)10:00 |
情景場所 | 三菱精密機械製作所 |
情景場所旧町名 | 安佐郡祇園町 |
情景場所現町名 | 安佐南区祇園 |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | 三篠・祇園地区 |
作者による説明 | **絵の中 当時ノ状況カラ皆をピカドントイエリ 建物疎開ニ行キタ方帰ルコノ世ノ人トハナキ姿、服ハ破レ一面(特ニ責任感念ノ強ツ人か)血ダラケ小生走リヨリ 当時小生守衛(夜警) 当時横川町三丁目書籍商 内山新助 昭和二十年八月六日 タンカデ公堂に運ぶ 午前十時なり所長報告スルヤ氣をうしなう 頭ニ水ヲ掛ル、一時後には死亡 赤チンキ 寄宿舎 負傷者各室満員 薬ナキ当時相当広キ総二階建なり 私ノ家族五人来ル (当時広島ヨリ通勤スルモノ僅カナリ 自分ノ内ノ事氣ニナリ) 北ノ入口 売店 工場 工場 当時暁部隊駐屯所 守衛室 式場 鋳物工場 機械工場 機械工場 食堂 相当広キ場所 機械工場 倉庫 倉庫 当時事務室沢山負傷者出たり 事務室 昭和二十年八月六日工員方広島市小網町ニ建物疎開ニ行ク 守衛ノ窓口ヨリ見ル コレガ最后トハ夢ニモ知ラザル小生、守衛方が出口迄見送ル 未ダニ残ル思ヒデナリ 一、二才子供棺桶ニ入リテ死ンダ死体見ルニ只々涙ノミ 幾百人水を水を呼ぶ 水をのむと死んで行く人幾百人 兵隊が■者■リナリテ治療ヤル 總ジテ■■者二名 広川公堂も負傷者満員 外來患者の夛ツに驚く 事務所 物置 当時当工場ニハ幾千人ノ方ガ働キ居タ 夛少工場ノ内容ニ誤リアリ 三十年前ノ事故ニ自分記録日記見テ書キマシタ 当工場主ニ軍車工場デ発動機制作朝から廿四時間クロベラーノ音計り 当時益々戦局ハ益々拡大トナリ裏の山本村山に防空壕を堀りて居た沢山の鮮人方や他の方防空壕の仕事で多忙 小生「見はりに毎日山に上る若き時代で出来た者だ 昭和二十年八月六日 安佐郡祇園町三菱精密機械制作所(守衛室が救護所 所長自カラ指揮) 大手セメント 小生昭和拾八年頃夜警トシテ入所及守衛ノ方が召集デ非常ニ少クナリ夜警ヨリ守衛トナリタ。 二十年原爆当時事務ヲトル最中原爆に相会ス裏ノ防空壕ニ入ル 当工場ニハ焼ドニ、ヨクキク、種油アリ市内ヨリ負傷者数百人来ル広イ講堂モ満員ノ有様ナリ |
サイズ(cm) | 49.5×26.5 |
展示の説明文 |